2003年 2月

2003/02/28   講演時の紹介    NO 358 

 講師として招かれた講演会場。与えられた時間の前にプロフィール紹介があるが、私は、これが大嫌い。

 気配りの出来る司会者の場合、「講師紹介は、どのように?」と打ち合わせをしてくれるが、「講師の紹介を**さんに」というようなケースでは、勝手に作られた物語を延々とされることもありウンザリする。 

 私は、おしゃべりのプロ。講演が始まって2分もすると、受講者を引きつけるテクニックぐらいは持っている。だから、失礼な表現で恐縮だが、前座の口上で与える受講者の勝手な先入観がマイナスになってくる。

 数百回という講演経験の中で、<うまい>と思った紹介が1回だけあった。その時の司会者は、次のように言ってくれた。

 「何も言いません。講師の紹介もいたしません。今から90分間、久世栄三郎の世界でお過ごしください」

 正直言って、これには仕掛けがあった。その言葉で客電が暗くなり、音楽が流れるシナリオ構成。気を利かせてくれた司会者が上述のコメントを入れてくれたのである。

 受講者の皆さんは、「何が始まるのだ?と興味津々」、1分も経たない内に私の世界に入ってくださることになった。

 冒頭にこんな仕掛けをするのには、何と言っても紹介を担当してくれる司会者の技術が重要。演出を理解出来ない場合には絶対にやらないのはあたりまえ。

 さて、ある講演で恥を掻いたこともあるので吐露申し上げる。

 場所は伏せるが、方言訛りの強い遠い地方。主催者である会長の挨拶が終わり、私の紹介を担当する方が話し始められたが、その内容の8割が特有の方言でさっぱり解らない。それは、間違いなく通訳を必要とするぐらい。

 しばらくして、会場から拍手が起き、その方が私を促している仕種で登場するべき時であることを知った。

 演題の前に立つ。私には恐怖感が生まれていた。果たして、私の言葉が通じるのだろうか? それは、外国で講演するような心情。

 冒頭に、「皆さん、この地域は、NHKのテレビ放送が見られますか?」と問い掛け、登場前のハプニングをコミカルに表現したらバカ受け。紹介者には申し訳なかったが、ふと紹介者を見ると大笑いをされている。

 真面目な葬祭サービスの話をする冒頭で、とんだ「枕」をやってしまったので後がやり難かったが、講演終了後に名刺交換の列が出来、それで30分間も要したのだから成功したのは間違いないだろう。

2003/02/27   悲喜こもごも    NO 357

 午後からビデオの吹き込み収録をやった。

数本は4分50秒バージョン、1本だけ7分20秒のものがあったが、声の調子がおかしく、何度かNGを出してしまった。

 「NO 352」の「待ち人来る」に書いていた音響器材を活用してみたが、収録したビデオを再生してみるとクリアの度合いが格段に違う。何百通りの変化が可能だそうなので、時間を見つけたらテストを行いたいと考えている。

 さて、日本トータライフ協会が毎日発信している「必見 コラム 有為転変」が、今日、400号を迎えることになり、「温泉の素」という入浴剤に関する温かい葬儀のことが記載されていた。

 去年の1月22日から始まって1年以上が過ぎたが、年末のクリスマスにリニューアルされた協会のHPが注目を浴び、信じられないようなアクセスを頂戴している。

 そのお陰でメンバー各社のHPへのアクセスもびっくりするように増え、多くのメンバーがリニューアルし、「コラム」モドキの発信をやっている。

 この「独り言」を発信したのは3月1日。もうすぐ1年になるが、正直言って毎日が苦痛。

 しかし、宗教の「お題目」ではないが、原稿をつくり、エンターボタンを押さなければ1日が終わった気がしない。

 ご笑覧くださる皆様には、「何とくだらないことを」とお感じになっておられるでしょうが、私の人生の道楽としてご海容を願えれば幸いです。

 書きたいことがいっぱいある。でも、書けないことが多い。それは、私が現役の立場にあるから。

現役を外れ隠居の身になった時、本音で書くことが可能となり、とんでもないことをしたためることになるだろうが、それは、絶対に面白い世界になるものと確信している。

過去に小説で「お葬式はハプニングにのって」を著したが、あんな事件は山ほどあり、ノンフィクションで書いたら世間を騒がすことになってしまうだろう。

 人生それぞれ。「死に様」は「生き様」という言葉もある。家族、親戚、友人、近所、仕事など、多くの方々に送られる終焉の儀式。それは、その方が生きた「証し」。織り成して来られた人生模様は悲喜こもごも。悲しくもあり面白くもありである。

 ただ、それは高齢の自然死に限ること。事故や突然死、また、若くして死を迎えられることは悲しいこと。そんな葬儀は担当したくない。

 高齢の女性の葬儀で、喪主さんがお通夜に赤飯を配られたことも体験したが、あんな葬儀なら大歓迎。でも、その時の喪主さんの言葉が悲しいものだった。

 「多くの方々を見送ってきた母でした。そして、今日、自分が送られる時、友人のすべてがこの世にいなかったのです」

2003/02/26   今日の出来事    NO 356

 今日の葬儀、定刻で始まり定刻でご出棺となった。

 リンカーンの霊柩車、運転担当者が気を利かせてくれ、生野区の狭い道を少し遠回りだがご自宅の前を通る行程を選んでくれた

 ご自宅の前で一旦停止をする。短い時間ではあるが、遺族のご心中には様々な思いが過ぎるもの。「よかったね」というお言葉が自然に生まれる。

 最近、自宅で葬儀を行わないことが多くなったが、こんな配慮は葬儀社として当然のこと。前もって自宅の近所の方にお知らせしておくと、身体が不自由で会葬出来ない方も見送ることが可能となり、結構お喜びいただける無償のサービスであろう。

 火葬場まで随行する私の車、医師である喪主様のご兄弟が同乗されており、車内の会話で「風邪」が登場した。

 インフルエンザは患ってからのクスリの効能は弱く、風邪を患わないことが大切ということを教えてくださった。

 霊柩車と私の運転する車の間に1台の車が走行されている。お寺様がお2人ご乗車された車だが、ご出棺の時にちょっとしたハプニングが発生した。

 霊柩車が動き出した後、しばらくの間、お互いが譲り合って停止したままの時間が流れてしまった。

 如何なる場合にもお寺様は前が原則。本来なら霊柩車の前をご走行いただかなければならないもの。今日のお寺様は謙虚なお方で、「お先にどうぞ」とのお仕種を送られる。

 その様子を見ていた弊社の担当責任者が走りより、やっとお寺様のお車が動き出し、ほっとした。

 入場されたのは、大阪市立瓜破斎場。今日は友引であり、いつもより静かであったが、先に入場されていた葬儀のお寺様を見て、びっくり。

 私の高校時代の社会の先生であった。

 これまでにも何度か葬儀でご一緒したことがあるが、当時からハンサムなお姿が変わっておられず、互いに目が合った時、「元気で何より」というような無言の会話が交わされた。

 まだ、声の調子が戻らないが、明日は溜まっている吹込みを何とかしなければならない。多くのビデオのナレーション、また、星名国際登録プレゼントの吹込みも待っている。

 自宅に帰って向かいを見ると、いつもの銭湯の電気が消えている。今日は水曜日で定休日。自宅の風呂に湯を入れ、換気扇を回さず、湯気をいっぱいにして深呼吸をすることにしよう。

 「風邪は、休養が大切。菌に勝つ体力になること」

 そんなことを教えてくださったお医者様のお言葉を実践することにした。

2003/02/25   素晴らしいお婆ちゃん    NO 355

 相変わらず声の調子がおかしい。まだ、風邪の兆候を引きずっているようだ。

 早く治さねばと思いながら事務所に行くと、友引で休もうと思っていた明日、私が担当しなければならない葬儀が入っていた。

 故人は、お医者様のお母様。最近、不思議なほどにお医者様に関係する葬儀が多い。

 スタッフから入手した情報によると、メモリアルボードや追憶ビデオも完成しており、今夜の通夜のナレーターもつとめなければならないということだが、今日の音響システムでは微妙な調整が利かず、まずい声となるだけではなく、体力的に腹式呼吸での喋りに差し支えがあるので難渋している。

 時間がある内にナレーション原稿の創作をと考え、故人の取材ノートに目を通しながら出来上がっていたご遺影を拝見すると、見るからにハイカラでお洒落な感じのするお婆ちゃん。
 
 座右の銘は「身だしなみ」だそうで、昨日、美容院に行かれて美しい髪形をされていたということを、納棺を担当したスタッフから耳にした。

 また、ご好物であった和菓子がお仏壇に供えられてあり、若くしてご伴侶を亡くされ、この6月に予定されていた33回忌をおつとめになることが出来ないのがお心残りだろうが、霊山浄土で再会を果たされ、懐かしく昔話をなさっておられるように思える。

 この方が青春時代を過ごされたのは、昭和の初め。兵庫県の名門女学校時代に水泳がお好きで、須磨海岸で遠泳されていたとのこと。この当時の須磨浦海岸は、さぞかし美しい自然の海岸であったことだろうと想像する。
 
 お婆ちゃんには4男1女のお子様があり、今では9人のお孫様と4人の曾孫様の存在がある。お孫さん達が感謝の心を手紙に託され、お柩の中に納められたそうだが、明日の葬儀は「命の伝達式」という意義を込めたいと思っている。

 『先生、風邪で調子が悪いのです。注射を1本お願い出来ませんでしょうか?』

 そんな思いを抱いているが、こんな場合は不謹慎。数日前に東京で貰ってきたクスリを飲んで、何とか頑張ってみよう。

 この葬儀のご宗教は仏教だが、1年に1回ぐらいしか遭遇しないご宗派。開式より引導作法を終えられるまでの時間が長く、会葬者が多いとの予測から、少し開式時間を早めなければならないだろう。

 お好きだった色は紫。ご遺影の元になったお写真はご旅行先の倉敷で撮影されたもの。

 茶道、華道、フランス刺繍、謡をご趣味とされた故人。クラシック音楽をこよなく愛され、和服が似合う純日本的な女性であられた。

 さて、お通夜の読経が終わり、お上人がご法話を始められたが、檀家さん達で『あの方のような生き方をしないと』と尊敬される存在であられたそうで、「お婆ちゃんが檀家さんであったことを誇りに思っています」と結ばれた。

2003/02/24   死別の時を迎えて    NO 354

 悲しみとは、孤独である。

「孤独は、死別の悲しみの副産物である」と、ある著名な心理学者が解説していたが、まさにその通りである。

 大切な人を喪うと、それまでの楽しい人生のメモリアルが一変して悲しみのメモリアルとなってしまう。

 それらは、過ごした家の中のすべてのものにあり、行動を共にして行った場所のすべてがその対象となってくる。

 病の訪れに死の宣告を受け、残された時間を有効に過ごしたとしても、また、死別に対する覚悟をしていても、これらはその日を迎えると、その現実の衝撃の大きさを初めて知ることになる。

 無力感、脱力感、疲労感、孤独感、自責感、不信感、絶望感などに襲われ、判断力が信じられないほど低下するこの時期、神仏に対する不信感も強く押し出されてくるもの。

 そんな中で葬儀という終焉の儀式が行われるが、多くの弔問者の来訪への対応などに追われ、悲しんでいる時間なんてないという状態となってしまう。

 そんなところから、「葬儀は、悲しみのドサクサに紛れて通過してしまう儀式」と揶揄されてしまうのである。

 考えてみれば、我々葬祭業に従事する者は、無責任で横着な行動をしていると言えるだろう。

 葬儀が終わってから襲ってくる「本物の悲しみ」、そこに関わりたくないという業者が大半で、これではいけないということで活動が始まったのが日本トータライフ協会。

 その発足から短い歴史しかないが、メンバー各社は、その重要性を認識し、様々なケアに対するサービス提供を構築しているし、受注時の打ち合わせから通夜、葬儀という限られた時間の中で遺族と共に悲しみを共有しながら、葬儀だけでも心残りが生まれないような努力をしている。

 仏教の場合、悲しみの遺族は、葬儀が終わってから初七日から満中陰までの各七日の法要に追われることになる。お寺様を迎え、親戚達への配慮も必要であるが、この忙しさが悲しみを紛らすことにつながることも確かだが、今、親戚達のご都合主義が優先され、葬儀の当日に初七日を済ませることが流行し、最も悲しい期間に空白の時間が生まれている。

 昔は、義理的な「殉死」というしきたりもあったが、今の時代にあって、精神的な情緒不安定から「後追い自殺」なんて悲劇だけは起きて欲しくないもの。

 悲しみの遺族の支えになるのは「人」で、それは、宗教者や友人という存在も大きい。

生前の思い出話が最高の「癒し・慰め」のクスリだとご理解願いたいという思いを託し、葬儀を担当した我々が、悲しみの事実を知る「思慕感」の対象であることも認識しておきたいものだ。

2003/02/23   発想の転換    NO 353

 あまり使用されることはないが、年齢の若いことを「年弱(としよわ)」と言い、数え年の年齢とも同意で、この場合、その年の後半に生まれたことを表すことにも使われている。

 高齢社会を迎えているが、驚くほどお元気なお年寄り達がおられる。「新老人の会」の結成にご尽力された聖路加病院の日野原先生も、その代表的なお一人であろう。

 その日野原先生と同年代の女性が表現されていた言葉に目が止まった。

 「老いは来るものではなく、迎えるもの」

 これを、そのまま葬儀に当て嵌めてみると、重みのある言葉が強調され、そんな発想の転換は、これからの人生観に大きな変化を与えてくれるように思えてならない。

 私も四捨五入すれば60になる年齢。上記の方々からすれば「年弱」と言われるだろうが、身体のあちこちに「老い」の信号を感じており、上記の言葉に触発され、心を若くして「老い」と「死」を迎えてやろうと意識転換したいと思っている。

 さて、昨日に担当した講演の質疑応答の時間に、美人で聡明なイメージの女性から強烈な質問を頂戴した。

 要約すると「久世栄三郎の世界は理解出来る。しかし、司会の技術、悲嘆ケアの重要性などは、後継者の存在が極めて重要で、それらを継承される活動の展開は?」ということであった。

 正直に言って、これは、一昨年まで、私が心の中で焦っていた問題であり、この解決なくして死を迎えることなどまっぴらで、昨年から伝承への努力を始めていた。

 弊社は、長男が後継者として入社し、若いスタッフ達が私の求めているプロ意識に結束を固め、やっと「かたち」となって表れ始めた段階となった。

 また、弊社が加盟する日本トータライフ協会の研修会への参加や、各社との深い交流の中で育まれた意識改革も実を結び、自身を磨く行動に情熱を燃やす姿勢が見え、私が最も与え伝えたい葬祭哲学の信念と技術を受け入れる態勢が整ったと確信している。

 社員の平均年齢は26歳だそうだが、全員がホスピタリティーのプロを目指していることで共通しており、彼らは、必ずや近い将来に大成するであろうと信じている。

 トータライフ協会の若いメンバー達も育ってきている。
それらは、彼らが発信しているコラムの内容に顕著なように、葬祭業の将来のありかたを確実に捉え、自分達の仕事とメンバーとして選ばれたことに対する誇りを抱き、高い文化の創造を指針しており、協会を設立した目的を誤まりなく理解してくれているので安堵している。

 哲学は、他人から教えられるものではない。自身が歩む人生の足跡に生まれるもの。生きた「証し」をしっかりと残したい時、その行動がその人の哲学になるのかも知れない。

2003/02/22   待ち人来る    NO 352

 今日、講演が終わって帰社すると、弊社と私が大歓迎申し上げる方が来社してくださっていた。

 前々から「是非、来社を」とお願いしていたが、ご多忙な方。やっと教えていただく時間を頂戴することが出来、嬉しく思っている。

 彼は、音響と照明のプロ。九州や東京での仕事でもお願いしたことがあるが、その技術は卓越されており、何より感性が素晴らしく、それにコンサートやイベントよりも葬儀の方が遣り甲斐があるとおっしゃるのだから有り難い。

 私の隠れ家に新しい器材を持ち込んでくださり、しばらくの間、拝借させていただくことになったが、この音響システムは、マイクの入力音を機械的に変化させて出力させるもので、大ホール、小部屋、教会の中など、何十種類の臨場感溢れる残響音を創ることが可能で、それを好みの秒数で処理出来るという優れもの。また新しい世界が広がるように思っている。

 さて、彼が持参されていたノートパソコンの世界を覗かせていただきびっくり。

 コンサートやブライダルフェアなどで創作された照明がリアルに復元され、照明のグローバルな世界の勉強になったし、同席していた弊社の幹部スタッフが「これは、凄い。大いに参考になり、我々葬祭業でも活用が出来る」と喜んでいた。

 照明の世界でもパソコンが必需品になっている。企画時のプレゼンに使用されるだけではなく、実際の照明技術をパソコン内で組み立て、それをパソコン自身から命令するというシステムも組まれているから驚きだ。

 「会場が暗くなることさえ出来れば、どんな照明演出でも可能です」

 そうおっしゃった言葉にプロの誇りを感じたが、それは<この人と出会ってよかった>と、改めて心から「えにし」に感謝申し上げた瞬間でもあった。

 私は、自身の幸せなことに手を合わせている。欲する分野にすべてのプロの存在があり、プロデューサーとしての最高の財産を得ていることにもつながり、これ以上の贅沢はないというようなキャスティングが可能となっている。

 振り返ってみれば、この方との出会いも不思議なご縁。私が2000年に発表した「慈曲葬フェア」に興味を示されご体感。「面白い」と思われたと同時に、「自分ならこうする」との思いも抱かれ、その後にアポがあって初めてご来社いただき、互いに熱いプロ意識の論戦を交わしたのも懐かしいところだ。

 ホテルの大規模な社葬では、恐ろしい音響システムを持ち込まれたこともある。マイクから1メートルも離れた内緒話まで拾う繊細な音響器材。アナウンスで唾を飲み込むことも出来ないという苦労も体験したが、私の声質を的確に伝達表現くださるシステムの提供、それは、私の最も嬉しいところでもある。

 しかし、それは、お粗末な音響では仕事がしたくないという、贅沢な自分を作ってしまったことは間違いないだろう。

2003/02/21   犠牲者に手を合わせ    NO 351

 毎食のデザートがクスリ。お陰で今日の昼頃から風邪の症状が和らいだ。

 夜遅くに帰阪し、この原稿を打っているが、昨夜のマッサージが効いたのか腰痛も楽になっている。

 しかし、声の調子が今ひとつ。明日の講演が心配だし、受講者の皆さんに申し訳がないところ。明日に快復していることを願いながら寝る前のクスリを飲む。 

 さて、韓国の地下鉄火災の被害者が気の毒でならない。報道によるととんでもない人災。災難という文字で許せることではなく、人の世の荒んだ危険性を再認識した思いだ。

 私は、昔から地下鉄には乗らないことにしている。もしも大地震が発生したらどうなる?
 空が見えるところで死を迎えたいし、えにしに結ばれた家族に自身の遺体をそのまま残したい思いもあり、飛行機に乗ることも嫌いなのである。

 テロや犯罪犠牲者の家族の心中は、それこそ筆舌に耐えない辛苦であろうが、加害者の「申し訳ありません」との言葉がなければ一縷の救いもないだろう。

 我々葬祭に従事する者は、宿命として事件絡みの被害者の葬儀を担当することになるが、遺族の衝撃の悲しみに接する時、自身の仕事を後悔する時でもある。

 ある殺人事件の被害者の通夜が始まる前だった。捜査本部の刑事さんが2人来られ、「必ず逮捕しますから」と遺族に誓う言葉で慰めていたが、こんな光景はテレビドラマの中だけであって欲しいものだ。

 弊社に毎年やってくる刑事さんがいる。彼は、少年犯罪の防犯担当で、弊社のカラーコピー機で数百の小冊子を作成されるのだが、そんな彼が「考えられない時代の到来だ」と言っていたのを覚えている。

 今や事件は「何でもあり」。こんなことをやるとは思わなかった。そんなことが次々に発生し、密入国問題も関係し、これまでなかった凶悪な犯罪が増えているそうで、自分を自分で守らなければならない時代だとも力説していた。

 子供や女性の被害者も増える。これまで安全だと言われてきたところも危険が秘められている。「最早、犯罪の世界に美学が消えた」と発言されていた社会学の教授の言葉も理解できる。

 今後、そんな被害者の葬儀が増えてくることだろうが、我々自身も「葬祭心理学」を研鑽し、悲嘆に陥る遺族への最良の接し方を勉強しようと思っている。

 交通事故や自殺の葬儀も耐え難いもの。悲しむことや辛い体験をすると他人に優しくなれるという言葉が存在しているが、そんな葬儀を担当し、他人の悲しみに多く接する我々は、一般の方々よりも「他人にやさしい」と言えるかも知れない。

2003/02/20   ホテルの部屋で    NO 350

 風邪の調子が芳しくない。人間の体とは不思議なもの。これまでに何度も体験したが、体のどこかに痛みがあると自然に庇ってしまうのか、予想もしなかった部分の筋肉が張ってくる。

 今、腰から背中に掛けて「キンキン」、これは堪らないとフロントにマッサージの予約を入れたが、1時間待ちということでこの「独り言」を打っている。

 今回の出張、たまたま健康保険証がスーツのポケットに入っており、助かった。
今日、昼前に内科医に飛び込んだ。

 外側が黄色に塗られたログハウス。そんなモダンなお医者さん。やさしくてインフォームド・コンセントもうまかった。

 「取り敢えず、クスリを出しておきましょう」

 そこで真裏にある薬局に行ったが、少し待たされて出された薬の量を見てびっくり。トローチを含めて5種類もある。

 それぞれの効力や副作用などが書き込まれたプリントを手に、親切な説明を頂戴したが、考えて見れば、「こんなに必要ですか?」「すべてが絶対に必要ですか?」とは聞き難いもの。

 一方通行な時間が過ぎ、「有り難うございます」と包装された袋を手にするが、持ち帰ると不思議なもので全種を服用してしまう。

 それは、早く完治したいという心情もあるだろうが、「ひょっとしたら」という選択の誤りへの恐怖感も働いているようだ。

 「服用されたら喉が渇きますよ」、そんなアドバイスもあったが本当に喉が渇く。

冷蔵庫からミネラルウォーターを出しては飲んでいるが、ふと並んでいた缶ビールに魅せられ、副作用の確認のために説明書を見たら、やはりダメ。

『飲酒により薬の作用が強く出ることがありますので、控えてください』とあった。そこで水で我慢することにした。

さて、55年も生きてきて、いっぱい医師や薬の世話になったことがあるのに、今日、初めて知ったことがある。

それは、私の仕事に大いに関係することなのだが、今日に貰ったトローチの説明文。

『解けてしまってから30分間ぐらいは、お茶を飲んだり、食物を食べたりしないでください』とあるではないか。

私は、喉を大切にしてきているところからトローチをよく口にするが、そんなことを知らず、いつもお茶や水を飲んでいた。

きっと、効力が半減していたと思うところだ。

今、部屋のチャイムが鳴った。マッサージさんが来られたようだ。

何とか「ペンギン」スタイルの歩き方だけを治して欲しいと思っている。

2003/02/20   ホテルの部屋で  NO 349

 先月の新聞に「とんでもない乗客」という記事があった。重たい手荷物を客室乗務員が持ち上げられなかったところ、「こんな物を持てないなら乗務するな」と暴力を振るったというのだ。

 乗務員も災難だが、世の中には、些細なことに大きな怒りをぶつける人もいる。タクシーの運転手さんの話を伺うと、絶対に私なら務まらないというような出来事がいっぱいある。

 これらは、最近のホテルの利用客にも多いようで、粗探しのようにクレームを付け、ひとこと言葉を返せば「責任者を呼べ」となり、一流のホテルでも、その対応にかなりの神経を遣っているようだ。

 ある精神心理学の専門家が、こんなタイプの人は、ある種の神経的症状の表れで、所謂「病」であり、その快感を求める行動を起こしている背景には、自身がそんな責められる体験をしていることが多いと言う。

 こんなお客様の相手をするのは大変。本人が「病」とは気付かないのだから始末が悪い。人格とは、怒りが生まれた時にこそすべてが曝け出されるもの。その結果に人物評価が成されるもの。人は、毎日が「修行」と考えれば成長出来るかも知れない。

 ホテルへのクレームで思い出したが、過去ログ「NO 76〜79」にあるように、私は、東京のホテルで大変な体験をしたことがある。もしも、これが上述のような人に遭遇していれば、それこそとんでもない事件になっていただろう。

 「叱りつけてやった」「怒ってやった」「謝罪をさせた」「責任者を呼びつけてやった」

 そんなことを自慢している人がいるが、それを聞いている人が「この人は、何という人だ」と、心の中で蔑んでいることだろうし、その攻撃を受けている当事者だったら、もっと蔑まれているかも知れない。

 「耐えた」「我慢した」「腹が立ったが抑えた」「立場が変われば」「明日は我が身かも」

 そんなことなら大いに自慢しようではないか。それからすると、私のホテル事件は自慢話としてのネタになる。

聞きつけた新聞記者が記事にするのはご遠慮願ったが、この独り言に堂々としたためることが出来たのだから、私の人生の面白い出来事の1ページになったの確かで、恐怖感と水難(湯難)を味わったが、幸いにして負傷することがなかったのだから感謝をしよう。

考えてみれば、私は、スイートルームでの災難が多い。ルームキーのカードが不調だったこともあるし、蛇口が錆びついて出が悪く、湯船に入れるまで25分も要したこともある。

これらは、すべてホテル側や先方さんが用意をしてくれたケース。やはり、無償のサービス提供を受けるのは鬼門のようだ。それに、私風情にスイートが不相応と教えてくれているのかも知れない。

今、この原稿をホテルで打ち込んでいるが、前回宿泊時には目覚まし時計が故障。今日はテレビのリモコンが機能せず、どうやらどれかのボタンの接触不良が原因のようだ。

 私は、チェックアウトに際しても、こんなクレームは言ったことがない。こんなことはホテルサービスのマニュアル以前の問題だからである。スタッフが素人さんに指摘されること、その羞恥に衝撃を感じる人が存在するホテルは質がいい。

 時計を見れば、23時58分。急いでエンターボタンを押そう。 あっ、日付が変わってしまった。

2003/02/18   ペンギン、東京へ    NO 348

 ナレーションの吹込みが溜まっているが、今日は目まぐるしい1日となり、先延ばしとなってしまった。

 出張で、明日の夜に東京に入る予定を組んでいたら昼頃に電話が入り、上京する用件が急に1件増え、夕方に上京することにした。

 先月に急逝された日本の超有名人の偲ぶ会が、来月、東京のホテルで行われるが、このプロデュースに関して難しい問題があり、アドバイスを求められることになったのだが、電話から伝わってきたイメージからすると、展示会や発表会になってしまいそうな「会」の中で、悲しみの遺族のことを慮り、何とか「式」に構築出来ないだろうかと暗中模索の状況のようで、発起人や主催者団体が広範囲に及び、これらをまとめるには簡単なことではなく、まずは、その交通整理からやり直ししなければならないだろう。

 最近流行のホテルを会場とする「偲ぶ会」や「お別れ会」は、何度も書いたように、単なる「集い」や「会」に併せ、参列者の社交場的な会場空間となり、悲しみの遺族の存在が全く忘れられている傾向が強く、飾られた「遺影」に対する礼節を欠いた形式が主流となってしまっている。

 これらは、体験された遺族だけではなく、参列された人達からもその声が上がっているが、ホテルやホテル専属のフラワー会社にはこの認識がなく、ホテルは会場空間と食事だけを売りものにしてしまっているのが現状。

 私が「何れ、社葬というものが行なわれない時代が来る」というのがこのことで、それらをスピードアップさせているのが現在のホテル業界だと思っている。

 「偲ぶ会」や「お別れ会」の中で「式」を組み入れる。たったそれだけで意義が生まれる筈。その本義を解らずして「葬送サービス」は有り得ないと断言するところである。

 さて、夕方に、大手葬儀会社に勤める友人が来社した。彼とは古くからの付き合いがあり、ヨーロッパ旅行に行ったこともある仲だ。

 互いの葬祭業に対する思いをぶつけ合うが、彼の会社ではどうしてもマニュアル中心でしか成り立たず、多様化、個性化ニーズの時代にあって逆行しているような思いを抱いている。

 私が担当した無宗教葬儀の参列者が、今年の1月に彼の会社が担当した無宗教葬儀に参列され、「これは、いったい何だ? ただ宗教者が入っていないだけではないか」と驚愕されたことを伝えたが、彼の会社では、司会もマニュアル。それも仕方のないことだった。

無宗教には「司式者」が不可欠なんて、今の葬祭業界では夢物語のようだが、彼は、その重要性を認識しており、私の話を興味深く聞いていた。

司会者から司式者への意識改革。そんなことを10年以上前から力説してきたが、無宗教の流行やホテルでの葬送サービスが社会認知されてきた今、その重要性がいよいよ認識されてくる時代の到来だと思っている。

風邪の症状が腰痛を引き起こしているようで、歩く姿がペンギンみたいで恥ずかしいが、明日は、そんなペンギンが東京を歩くことになる。

2003/02/17   今日の葬儀から    NO 347

 最近、「家族葬」と呼ばれる葬儀が流行してきている。

弊社への電話でもホテル葬、家族葬、無宗教形式への問い合わせが多くなっているが、これらは、今後いよいよ強くなってくると確信している。

今日、私が担当した葬儀も、まさに「家族葬」。大阪の西区にある由緒あるお寺様の立派なご本堂、ご本尊を中心にして花の祭壇が飾られていたが、広い式場に座っておられるのは7人様だけ。その内のふたりは小学生で、故人のお孫さんであった。

導師をつとめられたご住職が「お念仏」を唱えられると、皆さんがご一緒に唱えられ、お孫さんの声が一際大きく、「お爺ちゃんのために」との純粋な心が伝わって来る。

葬儀式が終了し、弊社のオリジナル奉儀の後、私は、次のような言葉を贈った。

「私は、多くの方々のご葬儀を担当してきましたが、今日のように皆さんが『お念仏』をお唱えになっておられるご葬儀は初めてです。きっと、お爺ちゃんがお喜びになっておられることでしょう」

 そう言った時、お孫さんがニコッとされたのが印象に残っている。

 電話での問い合わせの中、家族葬形式は、二分化されていると言えるだろう。

ひとつは義理的会葬者の割愛、もうひとつは、ご家族だけで静かに心からお送りしようというケースで、前者には無駄な経費削減も背景にあるようだが、今日のご葬儀は後者のケースであった。

 開式からご出棺までの1時間。会葬者がいないということは、時間に余裕があることになる。お柩の蓋を開いてからの「お別れ」の時間、それは、故人と遺族にとって何よりのひとときとなろうし、我々業者が理解しながらも実現できない部分の解決ともなる。

 考えてみれば、1時間の葬儀なんて、誰が決めてしまったのだろうか。もっとグローバルに考え、遺族が中心となって告別の「かたち」を構築するべきだと思うし、そのアドバイスやお手伝いが出来ればなとも思っている。

 子供の死や事故死など、特別に悲しい葬儀は、会葬という第三者の存在があるから「ご出棺」が可能となるとも言われているが、そんな葬儀で、「ゆっくりとお別れが出来ました。出棺をしてください」と、悲嘆の遺族から言われる葬儀を考慮してもいい筈。

 「皆がそうしているから」「慣習だから」「それが式次第だから」

 そんな考えから逸脱しても許される筈。悲しみは万国共通だが、遺族が伝えたい思いはそれぞれ異なる筈。それを「かたち」にされることは悪いことではない。そうさせない心が間違っていると思っている。

 それが、自由葬という形式の原点なのかも知れないし、それらを具現化可能なプロの存在も求められてくることにもなる。

 ある高名な宗教者が「葬儀が見えなくなってきた」と解説されておられたが、私は、一般の方々に「葬儀が見えてきた」という現象のような気がしている。

2003/02/16   別れの神様   NO 346

 司会を担当してきた葬儀、孫さんと曾孫さんの「お別れの手紙」を代読し、火葬場までお見送りし、その後の今日の仕事を休むことにした。

 風邪の症状を、これ以上に悪化させないためで、食欲はないが、無理に食事をしてから薬局で風邪薬を買った。

 食後のコーヒーと洒落込んで、帰路の途中にある友人の喫茶店で水を所望し、薬局のオヤジさんが薦めてくれたクスリを飲んでいる時、テーブルの上に置いてあったクスリのケース箱を見た彼が、とんでもないことを言い出した。

 それを聞いた私は、飲み込んだクスリを吐き出しそうになるほど苦しくなった。

 「このカプセル薬、『地竜エキス』と書いてある。地竜って何だろう? 土竜だったらモグラだし、そうか、ミミズのことじゃないか」

 服用数量の確認だけをしていた私は、そんな文字を見なかったが、飲んでしまった以上、どうにもならないこと。こうなれば薬効に期待するばかりと言葉を返した。

 そんな時、若い女性が来店し、カウンターに座ってマスターに愚痴をこぼし始めた。

 それによると彼女は、日曜、祭日にブライダルの司会のアルバイトをしているそうで、何れは本業にしたいと考え、担当した新郎新婦とのコミュニケーションを大切にと、暑中見舞、年賀状は元より、半年に1回は手紙を送っているとのこと。

 そんな彼女の愚痴。それは、店内にいた数人の客が一斉に耳を傾ける内容だった。

 「聞いてくれる、マスター。私、仕事が嫌になったの。去年に3組、今年に入って、もう2組も離婚したのよ。あれだけ多くの方々を招いて祝福されたのに、同僚の司会者から言われたんだけど、私って、別れの神様が憑いているとしか思えないの」
 
 そこまで聞いた時、<言うな、黙ってろ>と思っていた私の願い裏切り、マスターがやっぱり応えてしまった。

 「別れの神様なら、隣にいるよ。この人、お別れ専門。毎日、毎日、お別れただ一筋」

 「嘘っ、本当? 葬儀屋さん? これいい、最高。私、お葬式に鞍替えしようかな。マジで」

 この後の会話はご想像にお任せするが、「地竜」のイメージを忘れさせてくれたことは確か。

 「どうだろう、このお嬢さん。葬式は無理かな? 顔が派手で目立ち過ぎるからダメかも知れんわ」

 そんなマスターの笑い声を後に席を立ってきたが、地竜エキスの効力に期待しながら身を休める私。今日のお通夜は、スタッフに任せることにした。

2003/02/15   ホテルでの 『偲ぶ会』     NO 345

 朝、事務所に入ると同時に、協会の九州のメンバーから電話が入った。

 昔から、我々夫婦が懇意にさせていただいているお寺様に関する訃報であった。

亡くなられたのは、ご住職の奥様のお姉様。

葬儀は、メンバー葬儀社の第2斎場で執り行われることを知った。

すぐに九州へ弔問に行かなければならないが、現在に抱えているスケジュールでは無理。世の中とは皮肉なもので、自分の思い通りに行かないことを、また教えられた。

 取り敢えず供花を依頼しておいたが、落ち着いたら九州に行かなければならない。

 さて、昨夜から喉の調子がおかしかったが、朝を迎えたら少し熱っぽく、完全な風邪の兆候。プロとして恥ずかしい現状となった。

 お陰で今日のホテルでの「偲ぶ会」、声の調子が今ひとつ、ミキサーさんにイコライザー調整で無理なお願いをしてしまった。

 ホテルで導師をつとめられたのは、お若いご住職。大きな張りのあるお声で、マイクも必要のない勤行の中、厳粛な式次第が進められた。

 会場空間を式場空間に神変させるためのオリジナル「奉儀」。この開式前の世界をご住職がご覧くださり、「何より静寂の式場になりますね」とのお言葉を頂戴し、ご退出後にお着替えになり、第2部「偲ぶ会」のオープニングもご体感いただくことになった。

 そんなところから、8分間の追憶ビデオとナレーション、続いて星名登録証奉呈式を3分30秒と予定していたのを変更し、急遽、プロローグに4分20秒のナレーションを追加した。

 これは、半分がアドリブ。発想したイメージは「プロジェクト?」。田口トモロヲさんの口調でナレーターをやってみた。

 合計16分間のオープンニング・セレモニー。それらが済んでお帰りになるご住職。お見送りを担当したホテルスタッフが拝聴したご感想によると、「故人の『人となり』がよく理解出来、ご遺族との今後のコミュニケーションに大きなプラスとなりました」とおっしゃっていただいたそうだ。

 献杯が終わって「お斎」のお食事が始まってしばらくすると、私がいた司会席に、故人の娘様がお越しなり、「心に残りました」との感謝のお言葉を掛けてくださって恐縮。

 参列者の皆様には、きっと様々なご感想やご意見もあられるだろうが、単なる「会」や「集い」にしたくなかったプロとしての私の思い。「式」としての緊張感だけはお感じいただけたものと自負している。

 スケジュールの関係で、次の式場に向かうことになったが、ご遺族のお悲しみのご心情に、いつか朝や春が訪れることを願っている。

2003/02/14   深夜の電話    NO 344

 久し振りの自宅での遅めの夕食。電話が鳴った。

 相手は、私の友人。「母が危篤」と病院から掛けていた。

 気になりながら深夜に床に入り、いつものビール「350・缶」も飲まず、医師から貰った睡眠導入剤を服用して眠りに入った。

 枕元の電話が鳴っている。番号表示に目ををやると彼から。すぐに明かりを点けて時計を見ると、午前3時半。彼のお母さんが1時間ほど前に亡くなられ、病院の手配した寝台自動車で自宅に帰っていた。

 すぐにスタッフに連絡して対応することになったが、スタッフが聞いてきた寝台自動車の葬儀の受注要望が凄まじく、友人の家族達が閉口していた。

 自宅までの搬送だけと断って病院に依頼した寝台自動車。彼らは、そこで葬儀の受注に至らなければ加算給与のないシステム。そのためには手段を選ばず、様々なテクニックで攻めてきて、時には脅迫まがいのことまであるので社会問題になりつつある。

 頼んでもしないのに「足袋を履かせましょう」「数珠を持たせましょう」と、次々に親切そうな行動を見せ、家族の誰かが病院で葬儀の依頼をしてしまったかのような「既成事実」をイメージさせ、巧みな受注セールスを展開している。

 友人は、これらを近所のご不幸で体験しており、私との関係もあり、黙って見過ごしていたそうだ。

 そして、「友人に葬儀社がいる」という言葉を出した途端、相手は掌を返したように冷たい態度に変わり、親戚の方々が驚かれていたと言う。 

 お世話になった医師や看護士さん。そんな方々への感謝の心情は、こんな病院出入りの業者の行動で「怒り」に変わってしまい、残念なことであろう。

 私が、ある講演で上述の話をした時、受講者の中に医療関係者がおられ、次の日から追跡のアンケート調査をされたところ、とんでもないイメージを与えていた事実が分かったと感謝されたこともあった。

 崇高な人生の終焉を迎えられた方に接する葬祭業。そこに従事する者が「ハイエナ」的な「商」の道を歩まれるのは残念なこと。それではいつまでも我々の業界に「文化」が訪れることはないだろう。

 雪が解け、耐え忍んでいた冬が過ぎる。

葬祭業界に「文化」という名の「春」が訪れることを待ち望んでいる。

 明日は、ホテルでの「偲ぶ会」。今からシナリオのチェックとナレーションの草稿をしよう。

2003/02/13   伝達の難しさ    NO 343

 私の友人に、「話し方」に関する「言葉の世界」の女性プロがいる。

 彼女が、近々、岡山県に講演に出掛ける。

 講演を依頼された団体は、社会で問題になっている「家庭内暴力」のカウンセラー組織。カウンセラーをされる場合に重要な「説得力」につながる言葉を研鑽するという目的だ。

 彼女と私が会話をすると、「今の言葉、おかしい」のオンパレード。互いに言葉尻を捉えて論戦を交えることになるが、勉強になる楽しいひとときが過ごされる。

 「言葉はタダ」「言葉は時には暴力」

 そんな格言もあるが、新聞記事と同じで、如何に短くて相手に伝わるかが重要。時には「見出し」的な発想表現もテクニックとして必要である。

 落語に「枕」というのがあるが、起承転結へのストーリーやシナリオ構成の前に、プローローグとエピローグをしっかりと構築するのがプロの世界。

 しかし、相手の表情の変化を敏感に察知し、シナリオ変更が出来る柔軟性を持たなければ納得は生まれず、ここが最も難しいポイントであるように考えている。

 人間は、耳が二つに口が一つ。たくさん聞いて少し喋る。雄弁だけで相手を動かすことは不可能。心の扉を開けさせるには、まずは拝聴の姿勢が基本となろう。

 私は、ラジオ、テレビのナレーターや、フェスティバルホールやシンフォニーホールでのナレーターも体験したが、同じマイクの世界であっても、聴く人が見える見えないで言葉表現が自然に変化するもので、この微妙な部分が面白い。

 また、舞台上で喋るのと陰アナを担当するのでも大きく異なってくるもの。相手の存在の位置関係に大きく左右されるのも司会の世界。これは、体験したものにしか理解出来ないことと思っている。

 隠れ家で多くの吹き込みを行っているが、いい仕事をしようと思えば、空想シチュエーションの設定が重要となる。時にはスタッフに語り掛けるような光景もあるし、北国の雪に閉ざされた孤独な自身を思い浮かべることもある。

 これらは、すべて自分中心のシナリオ構成で進められていることになるが、カウンセラーとなれば、当事者の世界に入っていかなければ何も見えて来ない筈。ここが評論家と違うところだと確信している。

 日本トータライフ協会のメンバー達は、今、悲しみのカウンセラーとしての研鑽に挑んでいる。

「悲嘆」という言葉は簡単だが、その奥にある意味は重いもの。共に悲しみ、葬儀を担当したという事実に生まれる「思慕感」にしか寄り添う道はないだろう。

 同じ体験をした人にしか理解出来ない世界。それを理解するのがカウンセラー。悲しみのカウンセラーへの道は遠くて厳しいものがある。

2003/02/13   本  物    NO 342

 朝からビデオのナレーションを数本吹き込み、夕方に友人である関西ナーバーワンの女性ブライダル司会者がやって来てくれた。

 ある特別なビデオのナレーションを担当してもらったが、やはり一流のプロ。短い打ち合わせでリハーサル、すぐ本番に入り、1回で収録を終えた。

 弊社の女性スタッフ2人を立ち合わせ、音楽や収録の手伝いを担当させたが、味のあるナレーションに本物のプロの世界を体感して喜んでいた。

 その後、近くの店で妻を加えて食事をしたが、是非、「一緒に行って欲しい」と言われた店があり、タクシーで出掛けることになった。

 伺った店は彼女のご主人が経営されるお店で、素晴らしいと伺っていたご主人の歌を拝聴してきた。

 彼は、永年、民謡の世界で活躍され、小唄、民謡、三味線の名取。「長持ち唄」でのコンクールで西日本第1位という成績で優勝された方。

 初めに聴かせていただいた曲は、今、流行の成世昌平さんの「はぐれコキリコ」。彼は、民謡の大会で、いつも成世さんと優勝を分かち合っていたというレベルで、永い交流から店に来られることあるそうだ。

 半端でない本物の歌唱力は、さすがに一流との貴重な体験をすることになった。

 彼は、日本全国の民謡に挑戦していたが、ある時、その地に土着した民謡は、その地の方々の「心」に勝てないということを悟られ、ご自身の最もお得意な曲を極めるために、茨城県の民謡「磯節」を徹底的に研鑽されたとのこと。

 また、世界の民謡を披露するイベントで、誰も滅多に歌うことのない韓国民謡を、津軽三味線をバックに歌われ、その歌声の迫力に驚嘆された来場者が万雷の拍手を贈ったエピソードも有名。

 こじんまりとしたお店だが、様々なジャンルの音楽家達が集われ、民謡は元より、津軽三味線、ハワイアンなど、音楽をこよなく愛される皆さんの集うところとして、知る人ぞ知るという存在になっていた。

 我々夫婦は、久し振りに素晴らしい本物の音楽に接することが出来、幸せなひとときを過ごすことが出来た。

 店内には、成世昌平さんや、美空ひばりさんの生まれ変わりと呼ばれる女性歌手のポスターが張られていたが、来店される音楽家達の名前を耳にし、このお店が本物の音楽の交流の場になっていることを知った。

 彼の歌は、凄い。形容詞のないほど驚嘆した。帰る前に聴かせていただいた「長持ち唄」が、今も耳に残っている。

 そんな事情で、発信の日付が変わってしまいました。お詫び申し上げます。

2003/02/11   びっくりした「ご仏縁」   NO 341

 宇宙衛星のお陰だろうか、最近の天気予報は正確のようだ。

今日の大阪は昼前から雨が降り、午後から雨脚が強くなった。

 そんな中、今日の葬儀は、500人が着席可能な広い空間。天気も気温も関係なく、静寂の中で厳粛な葬送の儀式が執り行われ、「この式場でよかった」というお言葉を多く頂戴した。

 やがて、ご出棺。車内でお寺様とご一緒に、喪主さん親子と思い出話を交わしながら、阪神高速を火葬場に向かって走行。追い越して行くトラックの飛沫で前方が見えないぐらい雨が降っている。

 「夫は、車が好きでした。若い頃からベンツに乗り、何台も乗り換えていました」

 奥様から、そんな昔話を拝聴したが、前を走る霊柩車は洋型のキャデラック。

 「お父さん、最後も、いい車に乗れてよかったね」 そんなお言葉もお聴きした。

 入場したのは、大阪市立瓜破斎場。同じ時間帯に数名様のご入場があり、少し騒然とする中で炉に納められたが、その後、お寺様から驚く事実を教えられることになった。

 「久世さん、隣の炉の名札を見てご覧なさい」

 そんなお言葉で名札を見ると、なんと「久世**様」と書いてある。私と同姓の方が亡くなられ、偶然に私の担当した故人のお隣に納められていたのである。

 「ご仏縁」という言葉が過ぎり、炉に向かって一礼のうえ手を合わせてきた。

 世の中には不思議なめぐり会わせがあるもの。過去ログに書いたが、ある時、この瓜破斎場に入場した際、私が担当した故人と同姓同名の方が1時間前に入場されていたということもあった。

 異なる日にこの世に生を享けられ、異なるところでそれぞれの人生があり、それを終えられて火葬場でめぐり会う。こんな数奇な物語りも世の中にはあるのだ。

 「壁に耳あり・・・」という諺があるが、こんな体験をすると「天に目がある」ような思いを抱き、悪いことなんて出来ない。

「いい人だったな」と思われて人生終焉を迎えたいもの。これまでの人生に反省をしながら、また、明日からの日々に精進しなければと、心を新たにした1日だった。

 明日は、ナレーションの吹込みがいっぱいある。また、私の友人がやって来る。彼女は関西のトップにランクされる女性司会者。大規模な祝賀会などで何度かご一緒したが、アドリブのうまさは群を抜いている。

 弊社の若いスタッフ達は、彼女の声に接するだけでも勉強になる。ちょっと、研修をしたいなとも思っている。

2003/02/10   外は夕闇    NO 340

 今日に担当してきた82歳のお方、スタッフが取材してきたノートには、若かりし頃の壮絶な1ページが記されていた。

 戦雲急を告げる昭和の時代に、故人は、16歳で志願兵として海軍にご入隊。日本の歴史に残る名戦艦「武蔵」「大和」にも乗船されておられた。

 波乱万丈の海軍時代、最たるものは戦艦「日向」の物語り。砲撃手として乗船された船は、ミッドウェー海戦で被弾。血の海になった砲塔の中にかろうじて生き残ったのは、故人ただ1人。それこそ九死に一生という言葉そのままに病院船に収容されたそうだ。

 そんな故人が尊敬されていたのが歴史に名高い「山本五十六」さん。病院船や入院されていた病院で声を掛けられ、「治癒したら、また、戦うか?」と訊ねられたことに対して「やります」と答えられ、握手をして励まされたことがご自慢であった。

 私は、これまでに多くのナレーションの草稿をしてきたが、「武蔵」「大和」の両艦に乗船された方や、山本五十六さんと握手をされたことを伺ったのは初めて。お好きだったという軍歌を歌っておられた故人には、お国のためにと戦った多くの戦友の戦死に対する思いもあったものと拝察している。

 さて、一方の方だが、スタッフが預かってきた思い出写真を拝見してびっくり。お若い頃にお好きだったという、昭和30年頃の名車「フォード」の前で撮影されたものがあった。

 この時代、こんな車が通っただけでも話題になったもの。それは、きっと、刻苦精励された故人の夢の実現のひとつであったのかも知れない。

 今日は、信じられないようなあたたかい日だった。遠くの式場に向かう車の中で温度計を見たら14度。帰路には18度になっていた。

 そんな天気が崩れそう。明日の葬儀は雨となるようだが、明日の式場は天気や気温の心配が全くない。広々とした静かな空間での進行となる。

 日々に葬儀を担当しながら、自身の葬儀の日に近付いていることになる。

こうしてこの「独り言」を生きた証しとしてしたためている訳だが、そんな中、日本トータライフ協会のメンバーが、また1人、コラム的なものの発信を始めることになったのでお知らせします。

 神戸の「株式会社 公詢社」の吉田社長で、ちょっと訪問したら「田中角栄さん」のことが書かれてあり、一気に読んでしまった。

 皆様も、どうぞ、ご訪問を。

 公詢社さんとは、社員を含めての懇親会が予定されているが、いつもどちらかが忙しくてなかなか実現しない。ひょっとして春の頃まで「無理かな」とも思い始めているこの頃。

 吉田社長のコラム発信は、懇親会の話題の中心になるだろうと思っている。

 さあ、これから「お通夜」に向かおう。

2003/02/09   ハードな中で    NO 339

 葬儀を担当している最中、横にいたスタッフの携帯電話が震え、別室に入って行った。

 式中の電話は、いつも緊急を要するもの。気になりながらマイクを握っていた。

 やがて戻ってきた彼女の表情が硬い。どうやら時間に追われる仕事のようで、一般焼香が始まった時に詳細を訊いた。

 それによると、私が司会を担当しなければならない2件の葬儀が同時に入っていた。1件は、かなり遠方で、京都からお寺さんを8人もお願いされるという。

 故人は、過去に私が担当した葬儀の委員長をつとめられたことがあり、そのご縁で弊社にご用命くださったことが分かった。

 もう1件の故人は、ある業界組合の事務局長から理事長になられた方で、この業界関係の葬儀には必ずお世話をされており、顔なじみではあったが、ある時、組合長さんから依頼された講演で再会し、その時に「私の葬儀を頼むよ」と言われたことがあった。

 葬送に携わる仕事に従事していると「ご仏縁」という言葉が心に突き刺さり、私は「えにし」という出会いを何より大切にしている。

 今、弊社には「人『財』」と呼ぶべきスタッフが育ってきた。サービス業の究極は「人」ということだが、それぞれを磨き上げ、それぞれが光り輝いてくれるのも遠いことではないような感触を抱いている。

 最近、「担当スタッフに感謝しています」というお言葉を頂戴することが多くなったが、こんな嬉しい兆候は、日本トータライフ協会に加盟するメンバーとの交流に培われたことが大きいと確信している。

 協会のメンバーである葬儀社は、「安心のブランド」という言葉を誇りにしているようで、ご体感をいただいたお客様の口コミから、協会の存在が除序に認識アップされてきていることも嬉しいところだ。

 今月は、ホテルでの「偲ぶ会」も入っているし、別にホテル社葬の予約が数件あり、総合シナリオを担当する私の仕事がハードになっている。

 そんな中で、この「独り言」の草稿に追われている。1本打ち込むのに30分を要するが、始めた頃の趣旨を貫徹し、「私の生きた証し」として努力しようと思っている。

 時たま午前0時を回り、日付が変わってしまうこともあるし、発信出来ない日もあるだろうが、なにとぞご海容くださるようお願い申し上げ、今から仕事に向かいます。

2003/02/09   追憶ビデオ    NO 338

 講演の帰路、駅で電車を待っていると、1ヶ月ぐらい前の葬儀でお会いしたお寺さんと偶然に出会った。

 電車が到着するまでの3分間程度だったが、弊社にとって進展となる嬉しいお言葉を頂戴することになった。

 そのお寺さんは。その葬儀で導師をつとめられ、今、そのご当家の満中陰を済まされての帰路。

 「お斎の食事をいただきながら、見せて貰ったよ」

 それは、弊社が通夜と葬儀で放映している追憶ビデオで、当日に生でナレーターしたものを後日に吹き込んでプレゼントしたもの。

 このお寺さんとは、今回の葬儀が初対面で、担当したスタッフが切り出せず、導師が入場される前に放映していたケースであった。

 「あれは、いいよ。感動した。あれだったら、式次第に組み込み、私が引導作法を終えた時に流せばいいよ」

 約25分の時間の差がある開式前の時間と引導終了時。両者での参列者の人数も当然異なってきて、「多くの参列者のいる時に」と願われるご遺族の思いからすると反しているが、そのお言葉を耳にした時、「よくぞご笑覧くださったものだ」とご遺族に対する感謝の念でいっぱいであった。

 顔なじみのお寺様には、「無理なことでしょうが、『引導』の後で」とご海容を願っているが、「よかった。感動したよ。故人の知らなかった人生の理解につながり、その後のお経に力が入ったよ」との嬉しいお言葉を頂戴したこともある。

 中には、これらを頑として許容されず、「導師の入場前に済ませておけ」というタイプのお寺さんもおられたが、確かにお経は有り難いかも知れないが、ご遺族や参列者の存在を慮ることになれば、きっと心の扉を開けてくださる信じている。

 追憶ビデオに用意したナレーション原稿だが、導師が済まされた引導や表白のお言葉を拝聴しながら、それらの一部をアドリブで加えることも少なくなく、そんなナレーションが最も評価される結果となっている。

 あるお寺の住職さんの通夜だった。10数人おられた同派のお寺さんの意見が分かれ、ビデオとナレーションをどうするか議論が交わされたことがあった。

 「在家さんなど、檀家の参列の存在を重視するなら意義がある」と決行が許され、通夜と葬儀に異なる映像とナレーションを担当したところ、数日経った頃、反対意見を述べられておられたお寺さんが来社され、当山の先代住職の三回忌に制作して欲しいと、30枚ぐらいのお写真を持ってこられた。

 「あれ、よかった。あれだったら歓迎だ。どうも世間知らずであったようで恥ずかしい」

 そんなお言葉を耳にした時、あらたなやりがいと自信が生まれた瞬間でもあった。

2003/02/07   無  題    NO 337

 今日は、新しいスタッフが入社した。

清潔そうな好青年で東北出身ということだが、大阪の大学を卒業しており言葉遣いに訛りがなく、マイクの世界にも憧れを抱いていることを知り期待しているが、入社1日目から、ベテラン社員と共に病院にご遺体迎えに行ったそうで、果たして大丈夫だろうかと心配している。

 さて、今日は、多くの来客があった。お陰で明日の講演の資料作りに支障を来し、帰宅してからパソコンに向かうことを余儀なくされた。

 明日の講演の受講者は、女性ばかりだそうだが、日本トータライフ協会の理事長という立場での講師を担当する。

 テーマは「新しいエンディング(終い)を創る」ということだが、難しいことをいかに解り易く伝えるかが簡単ではなく、限られた90分間の中でのシナリオ構成を考えているところだ。

 一方で、1週間前に依頼された難しいビデオの編集に頭を悩ませている。取り敢えず映像が完成したが、数人でチェックしてみると、画面から割愛するべき人物が数人おられ、その部分をカットすることになった。

 ナレーション原稿は完成しており、6分40秒の映像に計算通りミキシングされることもテストし、後はナレーターということで、数人の候補者をリストアップしてみた。

 トータライフ協会のメンバーで、マドンナと呼ばれる高知の「おかざき葬儀社」の「岡崎 道さん」にも録音テープを郵送いただくことになったが、原稿そのものが男性バージョンで構成されており、予定するBGMとのバランスで試行錯誤を繰り返している。

 テストバージョンで私自身が吹き込んでみた。自身の創作した原稿なのだから合うのはあたりまえだが、私の声をオープン化出来ない事情が絡み、それが何より苦の種。

 このビデオの編集には、多くのプロが携わっている。クリエーター、映像、コピーライターなど、それぞれが知恵を重ね合って取り組んでおり、全員が男性ナレーターというイメージを抱いていたが、女性の「癒し」もいいなという意識も生まれている。

 上述の「おかざきさん」の味がなかなかのもの。テープはノイズの問題で収録出来ず、いざ彼女ということになればご来阪を願わなければならず、毎日仕事に追われている状況を慮ると気の毒だ。

 ところで、最近、私が身を隠している「隠れ家」のことが知れ渡り、社員が不在を告げても「隠れ家では」と猜疑心を抱かれているよう。また、この「独り言」でスケジュールを確認してから来社されるケースも増えてきた。

 この対策を考えながら帰宅して、食事を済ませたら明日の資料作りを始めよう。

2003/02/06   慣  習     NO 336

 ある葬儀を担当した。ご伴侶を亡くされた60代の奥様、お人柄が滲み出る上品さが感じられた。

 さて、葬儀の当日の朝、式場に行った担当スタッフから電話があった。「えらい事です」、それが第一声。

 事情を訊ねてみると、彼らには初めて体験することで、驚愕するのも当然であった。

 驚きの原因は、奥様のご装束。純白の和装を召されていたのである。

 このしきたりは古くからあり、今でも伴侶を亡くされた奥様が「白」の衣装を喪服として身に着けられるところもあるが、大阪や東京などの大都市では極めて稀になっている。

 「あなたに嫁いで来た時の「真っ白」気持ちであなたを送ります」という、貞節を誓う儀礼的表現と言われているが、これなどは典型的な日本人的な慣習であろう。

 これまで1万数千名様の葬儀を担当してきた私だが、大阪の地でこの装束に出会ったのは6回だけ。もう、これから見ることはないだろうと思っている。

 過去ログにあるが、「夫を亡くした妻は火葬場に随行してはならない」という慣習も存在し、今でも地方からやって来られた親戚の方から耳にすることがある。これらも「純白」と同じ「貞節を誓う」という儀礼の表現だと考えられる。

 慣習とは「納得」を生む説得があることもある。

 ある葬儀に、地方に在住される本家の檀那寺が大阪にやって来られた。もちろん葬儀のしきたりも異なるが、出棺をして火葬場に向かう車の葬列で、前もってお願いしたことがあった。

 導師をつとめたお寺さん、「導」という文字に意味があるように、火葬場への道中は、導師が乗られた車が霊柩車の前を走行して先導する。

 交通量の少ない地方なら可能だが、大都会でこのしきたりを遵守すると様々な問題も生じてくる。

 狭い道路を走行する時のすれ違い。霊柩車なら多くの方々が優先させてくれるが、ハイヤーやタクシーでは譲られることはない。

5台、6台を伴って葬列を組む場合、警察官の在する交差点で信号が黄色になった時、最後尾を走行するマイクロバス。葬列ということで黄色信号を暗黙の内に多めに見てくださることも事実。

 そんな都会の事情を説明し、ご納得のうえ、霊柩車の後ろに続いてご走行いただいたこともあった。

 しかし、火葬場の入り口、そこでは入れ替わる打ち合わせをしていたのもちろんである。

 葬祭業に従事する我等。地方独特の慣習やしきたり学んでおかなければ恥を掻く。そんなところに全国のメンバーが結集する日本トータライフ協会の存在が有り難い。

2003/02/05   小さなダイヤ    NO 335

 今日の葬儀の担当責任者は、弊社の「ミス・ホスピタリティ」。亡くなられた日にご親戚との打ち合わせが行なわれたが、喪主をつとめる方が東京に在住されており、到着されてからの確認が必要で、仮通夜の夜遅くに電話があり、喪主さんとの打ち合わせに出掛けて行っていた。

 彼女に進行を任せてみたい。そんな心情が強くなってきている私。近々に徹底した司会の教育を始めようと思っている。

 音響機器の音楽の重要性に対する認識も高く、ビデオ収録や音楽編集の際の細微なテクニックも研鑽したようで、マイクを担当する資格が出来た段階に至ってくれた。

 彼女の指導で最も難渋が予想されるのは「関西訛り」。純粋の京都女性の言葉を、マイクの世界でどのように払拭するかにすべてがあり、本人の努力なくして完成はない。

 今、グーグルで「葬儀 司会者」を文字検索してみると、トップに登場するのが「エム・オー・シー」

 名古屋に本社があり東京に支店があるが、東海地区だけでも年間に6千名様の葬儀に司会者やスタッフを派遣する会社に発展している。

 社長は「石坂正美さん」、女性である。

彼女は、元アナウンサー。ブライダル司会者10数人を原点として葬祭業界に進出、今は、日本トータライフ協会の常務理事としても活躍。全国の大規模な社葬やホテル葬のプロデュースでも卓越した能力を有している。

会合などで彼女と会うと、我々は司会者の指導の話題にくれる。我々に共通することは「司会は、難しい」「司会は、奥が深い」「司会は、サービス業のトップにランクされるべきプロの仕事」ということで、プロデュースの能力と自身でシナリオが書けることが必須。

それらは、与えられたシナリオを言葉にする司会者は一流でないという結論に達するもの。

 そんなところからすると、上述の「ミス・ホスピタリティ」は、今、ナレーション現行の創作に取り組んでいることからも、一流になる素質を備えているということになり、心から期待している。

 石炭を磨いてもダイヤにはならないという格言があるが、彼女には、石炭ではなくダイヤの輝きが見える。

 私が外から磨いてみよう。でも、光り輝くのは中から。本人がダイヤとしての意識がなくては光らない。

 いつ、光り輝くことが出来るか。そんな楽しみが、これからの私の苦労でもある。

 今日は、彼女の誕生日。風邪気味で咳き込んでいて気の毒だったが、式場の行動にはそれらを見せることなく、余裕すら感じるように育ってくれた。

 小さなダイヤ、それが何処にもない輝きを見せてくれる日が近いように思っている。

2003/02/04   愛の女神の旋律    NO 334

 昨日書いたおじさんの葬儀を担当してきた。エンディングの挨拶のプロローグに「立春の 光纏いし 仏かな」という、昔に有名な俳句を使用させていただき、合掌をした。

 さて、過日、「NO 324 知らない曲」という独り言を書いた。

 故人の愛唱曲が昔の曲で、どこのレコードショップに行っても「廃盤」ということでどうにもならず、藁をもすがる思いで著名な女性音楽家に助けを求めた。

 彼女は何時間も費やされ、あちこちで情報収集のうえ、やっとその曲に出会ったということ。

 葬儀が行われる日の朝、自らが演奏された録音テープを届けてくださった。
 式次第の中で活用させていただいた彼女の曲、多くの参列者から感動のお声を頂戴した。

 私をはじめ、日本トータライフ協会のメンバー達では、彼女は「愛の女神」という存在の方。そんな方が大阪に在住されるということで、私はみんなから羨ましがられている。

 葬儀の式場で、彼女の演奏を耳にされた方の誰もが驚かれる。葬儀の終了後に精算に伺うと、必ずと言っていいほど音楽のことが話題になる。それほど素晴らしい感性が秘められていると言えるだろう。

 そんな彼女から、メールが届いていた。

 私は、それを拝見しながら涙を流し、心から反省をした。これは、私の浅慮が彼女の心に傷を与えたように思えてならず、反省よりも後悔をしている。

 「愛の女神」である彼女を崇拝する真情のどこかに、自身の驕りが生まれていたようだ。

 そんな思いを託し、彼女のメールを下記申し上げ、深謝の心情の一歩目とさせていただく。

『私のような者を「独り言」に取り上げて頂き、大変恐縮しております。私ごときが申し上げるのは非常に僭越なのですが、音楽は「楽譜」ではないのです。楽譜があって演奏出来るのは音楽家として当然のことです。しかし、ご葬儀の音楽に関わらせて頂く以上、私はどのようにしても、原曲を聴いてみることにしています。原曲の持つ「旋律」と「歌詞」があって初めて、その曲の意味が把握出来るのだと思っています。先日のリクエストも、何とか原曲を探し出し実際に聴いてみました。そこには、何故、故人様がこの曲がお好きで歌っておられたか・・という背景が見えて涙が出てきました。
 何か偉そうなことを書いてしまい、非常に申し訳ないのですが、私の考えを少しでもご理解いただけましたら幸いです。
 ここまでお読み頂き、誠に有り難うございました』

 仕事以外に何度かテレビ番組でもご一緒したことがある彼女。彼女が作曲と演奏をされた葬儀音楽「オリジナルCD 慈曲」が、読売テレビの「宗教の時間」で高尚に取り上げていただいたことは共通の誇り。

 今一度、その頃の原点を見つめ直さなければいけないと思っている。

 三鈴さん、ごめんなさい。これからも我が協会の女神として光り輝いてくださることを願っています。

 ※ 日本トータライフ協会のホームページに流れるすべての曲は、彼女がそのイメージに合わせて作曲され、自ら演奏いただいたもの。その「やさしさ」に触れていただければ幸甚です。

2003/02/03   思い出を形見に    NO 333 

 今、明日の葬儀のナレーションを打ち込んでいる。故人は、昭和11年生まれ。私が「ヘラブナ釣り」の道楽を過ごしていた頃からの付き合いがあり、私の子供達を可愛がってくださったおじさん。

 この方には、いっぱい思い出がある。季節の訪れの度に「さつき」の見事な盆栽を事務所に持参されたことも懐かしい。

 愛媛県出身の方で、お父さんの葬儀を担当し、納骨に故郷へ帰られる時、横着なことだがオレンジフェリーでご一緒して、ヘラブナ釣りで有名な「おはなはん」の故郷、大洲の奥にある「鹿野川ダム」に出掛けた。

 私ともう1人の方と釣りをしている間、おじさんは、私の車を運転して八幡浜にあるお墓に納骨されてきた。

 宿泊したのは釣り宿。ここは俳優の近衛十四郎さん、松方弘樹さん親子がよく来られ、釣果を記したノートに、そのお2人が前々日に大釣りをしたことがしたためてありワクワクしたが、残念にも釣果ゼロ。いわゆる「ボウズ」というところにおじさんが戻ってきた。

 「思った通りじゃ。納骨に来て魚釣りなんて、ボウズに決まっている。しかし、明日は釣れるぞ、わしが用事を済ませたからな」

 その夜、「明日こそ」と思って一睡も出来なかったことをはっきりと覚えている。

 ある日、おじさん夫婦が自宅に来られた。ご長女が結婚されるとのこと。私達夫婦に招待状を届けられ、私に祝辞を頼むと言われた。

 私は、その時にお話しされたおじさんの気持ちが痛いほど理解できた。そこで、結婚式場と懇意にしていたところから、披露宴の当日に支配人、司会者、演奏者を巻き込み、特別な演出を仕組んで朗読をやった。

 その良し悪しは別にして、式場とおじさんの親戚の皆さんの語り草になり、親戚のおばさんから「来年、娘が結婚するの。ギャラを出すから来て欲しい」と頼まれた。

 やさしくて素晴らしい奥様の存在が傷ましい。その披露宴前に伺った娘さんへ思いを語ってくださった心情が美しく、今でも泣けてくる。

 おじさんには2人の女の子があり、それぞれが結婚され、今、5人の孫さんの存在がある。

 「娘が嫁いで行く。オヤジらしいことが出来なったが、母に似て、いい娘に育ってくれた。わしは、披露宴で表彰してやりたい。爺さんの世話をしてくれたことにもどんなに感謝しているかを。わしは、新婚旅行の出発を柱の影から見送る。旅行から帰ったら、必ず、仏壇とお墓に参るように。それだけあんたに伝えて欲しい」

 「ある日、娘のいた部屋に入った。飾られていた結納品も片付けられ、もの凄い寂しさに襲われました。でも、自分が嫁いできた時のことを思い出し、愛する人との幸せを願い祈りました」

 そんなご夫婦の思いを託された私。披露宴をお通夜にしてしまったことも事実だが、「いい嫁が来てくれた」と泣かれた新郎のお婆ちゃんもこの世におられない。

 何とかと探し求めた、お好きだった「桃」。それを供えることが出来ずに心残りですが、 おじさん、思い出を有り難う。明日、私が司会を担当します。

2003/02/02   悲しみと別れのプロ達よ   NO 332

 それぞれの地から集まったメンバー達が、それぞれの地へ帰って行った。

 それぞれが高額な旅費を負担されて集い、そしてみんなが熱く語り合う。その論議の内容の先には、いつも我々葬祭業界の文化の向上がある。

 『人の悲しみをどのように理解するべきなのか、葬儀が誰のために行われるべきなのか』

 そんなことを真剣に話し合う葬儀社の会なんて、おそらく日本トータライフ協会しかないだろうと思っている。

 そんな彼らに「誇り」を抱く姿勢が見えてきている。葬儀社ではなく葬儀<者>という「人」になりつつあるからだ。

 自社利益を追求するビジネスの中で、自身が生きた「証し」として、何かを成し遂げようという思いが成す行動実践。それは、トータライフ協会のメンバーが共有する理念。

 それらは、今、着実に「かたち」として具現化されてきている。

 昨夜は、食べて飲んで語り合った。酔っ払う者は誰一人としていない。全員の目が燃えている。「この連中は本気だ」 今回もそう思った。

 そして、今日、彼らを私の隠れ家に迎えた。床が抜け落ちないか心配しながら階下から椅子を運び込み、司会の研修を行った。

 テーマはナレーション。音楽を変えることでアナウンスのスピードが自然に変わる体験や、ナレーターとしての心構え、式場空間の情景イメージニングテクニックも伝えた。

 それぞれがナレーターとして、とんでもない難しいナレーションにも挑戦した。

 去年の夏、北海道で個人研修したメンバーも2人いたが、かなり上達していて嬉しく思い、新しいテーマに取り組む提案をプレゼント。次に再会する時のグレードアップが楽しみなところ。

 ナレーターの研鑽は自身が実際に喋ることも大切だが、他人のトークを耳に聴くことが重要。耳に入ったイメージやイントネーションが繰り返され、いつの間にか自分の世界が開けてくるもの。

 そのプロセスで恐ろしいのが自分流の「節」。これを払拭して正常な道に戻るには大変な苦労を強いられる。

 それらを克服した時、そこに生まれるのが「味」。そこで初めてプロの入り口。

 みんなのナレーションを耳にして、心の中から滲み出る「やさしさ」を感じたし、儀式の部分とやさしさの使い分けが見事に完成していることは評価に値すること。

 若いメンバー達、それぞれの地で、大切な儀式に大切な葬儀<者>として臨まれることを願っている。

 ひとつだけ言い忘れたことがあった。原稿に難しい漢字が多くあったが、それは、創作した自身がその文字の発する意味を瞬間に察して言葉に表現したいから。その部分が「仮名」との違いなのである。

2003/02/01   ナレーター探し   NO 331

  今日は、日本トータライフ協会のメンバー達が大阪に集う。

若い人達を中心とした非公式な新年互礼会ではあるが、北海道から来阪されるメンバー達を考慮して、あたたかい鍋料理が考えられているようだ。
 
 私は、東京での開催案を持っていたが、どうやら大阪の「食の世界」の魅力に負けたようで、掲示板の意見に流され大阪ということになった。

 そんなメンバー達に、ナレーターを依頼したいと願っていることがある。

 それは、私がシナリオを担当し、メンバー一同が尊敬する一流のクリエーター監修の元、1本のデモビデオを制作することなのだが、どうしても私がナレーターを担当できない事情があり、メンバーの中に数人の候補リストを考えている。

 約8分のビデオ映像の中で5分30秒のナレーションを予定しているが、活用目的が特殊な世界であり、ナレーターの声質が極めて重要で、それこそ「声優」という域を要するのである。

 彼らは、決して逃げ腰になることはないだろう。きっと「挑戦します」と応えてくれるだろうが、今回の原稿は一流プロでも難しい内容。

儀式調、アナウンス、癒し、やさしさ、そしてカギカッコと力強さに加え、エンディングでは「希望」というコンセプトが秘められてあり、日常に葬儀でこれらのすべてを体験しているメンバー達に白羽の矢を立てたのである

 昨日から映像作りが始まった。タイトルが決定し、挿入音楽のリストのチェックに進んでおり、後はナレーターだけ。

 クリエーター、依頼者、ビデオ会社の3者が私のナレーターでやりたいと思っているが、私の声は多くの方々が知っており、耳にすればすぐにばれてしまう。

 この「ばれる」ことが活用効果を著しく低下させてしまうことになり、歯痒い思いを抱いている。

 今日、大阪に集うメンバー達。彼らに、いつ切り出そうかと悩んでいる。せっかく楽しいひとときにとんでもない緊張を与えることは気の毒。

 でも、これは貴重な体験にはなろう。そう思うことに救いを求めている。

 掲示板を見れば、千歳空港や福岡空港に着きましたとの表記が入っている。午後3時頃にはホテルに到着するだろう。

 白羽の矢は災難かも知れない。しかし、クリエーターと私の作戦にすべてがある。

「被害者は誰だ」 場がシーンとしている光景を思い浮かべている。


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