喫茶店に置かれたゲーム機「インベーダー」が流行したのは、もう20年以上も前の話。その後、テレビゲームや携帯電話が驚くほどの進展を見せ、今やITの社会を迎えている。 家庭の電話も大半がプッシュホンに変わり、もう、あの懐かしいダイアル音の感触を聞くことが珍しくなった。 一方で携帯電話の爆発的な普及により、公衆電話が少なくなり、携帯電話を持たない方々の不満の声も上がっている。 2年ほど前、「インターネットとは何か」という演題に興味を持ち、無料の講演会に参加させていただいたことがあった。参加者の大半が団塊世代以上、中には80歳ぐらいの方も十数人おられる。
講師が冒頭に、「今日、参加の方々にお聞きします。インターネットは若い方々のものであるとお考えの方、挙手ください」と言われ、私を含め、8割以上の方が手を挙げた。
「今、手を挙げた方々は愚かな方々です。インターネットとは、ここに出席されておられる方々にこそ活用される意味があるのです」
そこから始まった約1時間の講義、それは、私がいかに愚かであったかを悟らせていただくことになった。
JRや地下鉄の切符売り場で、お年寄りの方が、買い方が分からず困惑されている姿を見かけることが多いが、世の中というものは便利と喜ぶ人がいる一方で、不便だと困っている人が存在していることを忘れてはならない。
可愛くて仕方なかった孫達が成長し、やがて幼稚園に通う頃、テレビのチャンネルの操作が理解出来ないお年寄りをバカにするという話も多い。
昔、お年よりは尊敬されていた。なぜならば知恵の宝庫であったからだ。鋏の使い方、食品の貯蔵方法、礼儀作法など、「なるほど」という「知恵」に培われた意識改革を与えてくれていた。しかし、現況の社会変化の中で、どのような存在に向かいつつあるのか、真剣に考えなければならない。
チャンネルも扱えない、切符も買えない、そんなことでお年寄りを「バカ扱い」にしてしまう「知識」優先社会の訪れ、そこには大きな落とし穴があるように思えてならない。
ある社会学者が「ネット社会」を皮肉られて、「考えない人を作る社会」と問題提議されていたが、それに共感される方々の声も大きい。
果たして小学生にパソコンやインターネットの教育が必要なのだろうか、難しい計算でも、計算機ですぐに答えの出る時代、文明の利器を活用することを知識として勘違いしていないだろうか。
昨日、「自殺」のことに少し触れたが、インターネットでの「自殺」を検索してみると、なんと537,000件のページ登録が登場する。精神心理学の観点からの分析、思い止まるようにと願う予防、また、その反対のとんでもない表記など、初めて知る世界のことが列記されている。もしも、願望ある方が最悪のページを開いたらどうなるのか、決行されてしまうパーセンテージが確実にアップする恐ろしさを秘めている。
善悪の判断のつかない年代、そして興味本位に走る世代、この「利器」が生まれていなかったら、発生しなかっただろうという悲劇や事件も起きている。
ネット社会は、あらゆる産業の世界でも大きな影響を巻き起こしている。知恵の技術が表面化されず、知識を戦略として活用する企業がクローズアップされ、リストラの姿勢を見せ、将来に必ず必要となる知恵ある「人財」を割愛している。
内部に残るのは知識のみの「人材」。その行動を進められた経営者こそ「人罪」と称するべきだろう。
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