2002年 6月

2002/06/30   悩みの解決     NO 121

 この数年間、悩んできたことがあった。それは、故人の人生を表現する部分に重要なフォトビデオである。
 
 ご遺族から思い出のお写真をお預かりし、編集を行い、資料映像に被せて創作する訳だが、社葬やホテル葬など日を改めて行なわれる場合は、関係するプロの世界に託することになるが、今日のお通夜、明日の葬儀となれば自社で早急に制作しなければならない。

 一般ご家庭の葬儀では、時間の上に限られた範囲の予算という問題があり、コンピューター、デジタル、スキャンを駆使し、短時間で完成することが求められる。

 これらのシステム完成には至っていたが、絶対に納得が生まれない問題を、お客様と私の両者が抱き、これまで、ずっと悩んできたのである。

 それは、音楽。ビデオのBGMに対する不満であった。

 お通夜や葬儀の場で流されていた音楽。それは、ご遺族の脳裏に焼きつくこととなり、ビデオに最初から挿入されている音楽では致命的な欠陥ということになる。

 ましてや、弊社の場合は、スタッフ達が取材の元、故人の人生表現のためのオリジナルナレーションを創作しているところからも、式場で司会者が「生」で対応してきた生い立ちナレーションを、差し上げるフォトビデオに挿入したいという考えが強く、すべてのお客様からもこのご要望が生まれていた。

 1週間前、そんな私の悩みを知られたあるプロの方が、信じられないようなビデオ編集器材を恵贈くださった。

 大きな喜びを抱き早速取り組んではみたが、何と言ってもプロ仕様。我々素人で活用可能なレベルではなく、説明書の中に登場する専門的語句さえも理解出来ない有様。

 ビデオ、編集機材、音源となるCDコンポ、そしてアンプとマイクなどのセッティングを行い、私の隠れ家である部屋での戦いが始まった。

「音楽スタート」「フェードアウト」「バランスチェック」というような言葉が飛び交い、何百回もテストバージョンが繰り返されたのは言うまでもない。

 それから3日目、「やった」という瞬間があった。どうやらうまくいったようで、編集用機材で放映して見ると、見事に流れてくる。スタッフ達の顔がほころぶ。

 ところが、そこから信じられない問題が発生した。プロ仕様の機材では映像、音声とも流れるが、一般的なビデオシステムでは音声が流れて来ないのである。

 また、2日間の戦いが始まった。そんな中、今日は嬉しい訪問者があった。音響と照明のプロの来社であった。

 彼は、我々素人にでも対応できる編集方法を、持っていた小さな「ミキサー」ひとつで完成させてくれ、その機材をプレゼントくださった。

 録音レベルが不明というシステムで、勘を頼りに2回のリハーサルで録音本番となったが、幸いにもNGはなく、確実にご満足に至る完成品となって収録されていた。

 BGMは、葬儀当日に使用されたオリジナルCD「慈曲」から2曲を選曲し、ナレーターは、私が担当した。

「失礼ですが、こんな普通の部屋で、こんな機材で、こんなビデオが一発で完成するとは驚きです。完成品は、私にも満足出来るレベルですよ」 

 そうおっしゃってくださったお言葉が嬉しく、スタッフ達は、早速、完成品の配達に、ご遺族のご自宅へ向かった。

2002/06/29   苦い思い出    NO 120

 役職の立場にあるだけで、弔辞を読まなければならないことも多いだろう。

義理的な場合は、秘書の方が代筆されることも多いが、そうでない時は、ご本人自らがご苦労されるのが弔辞である。

どんな企業の総務部、役員室にも「挨拶の常識」や「冠婚葬祭の挨拶」というような本が、いざという時の為に備えられているようだ。

 最近ではインターネットの情報発信により、この世界も信じられないような発展があり、参考となる例文が存在している。

 弊社HPページの「お葬式大百科」にも弔辞のコーナーがあり、多くのご訪問をいただいているようである。

 朋友や親友の死に対する弔辞の創作は、本人の悲しみも強く、遺族との交流もあるところから自然に完成するし、その内容も充実していることは確かで、拝聴される方々の感動を呼ぶことにつながるだろう。

 プロとして提案したいことは、義理の立場での弔辞を依頼しないことと、依頼されたらお断りをされること。

 弔辞のひとつでもなかったら「格好が付かない」というような社葬。そんな考えの社葬なら、社葬そのものをお止めになるべきだと考えている。

 この世から去られた人への基本的な礼節、それは義理の排除であり、自身の本心で参列の判断をするべきもの。そんなことからすると、近い将来には「社葬」ということは消滅してしまうと確信している。

 様々な世界で「無駄」の割愛が叫ばれているが、葬儀の世界では「義理的会葬者」の割愛。それが今後のキーワードだろう。

 この考え方に、宗教者の方々は抵抗感を抱かれるようだ。なぜなら、通夜、葬儀を布教の機会とのお考えもあるからだ。

確かに義理的参列者であっても、「命の尊さ」「死の現実に自身の生を知る」ということは重要であるが、それならば納得を生む説得力ある説教のパワーが重要である。

「このお寺様は本物だ」。そんな宗教者のお説教は、やはり凄いものがあるし感動するものだが、こんな方々に共通することは、焼香の回数などの「作法」に触れられないということで、「死」「生」「命」「愛」などを中心にお話されておられる。

 あるお寺様のお説教で、「優しいという文字は、人を憂うと書くのです。他人を憂うことが出来るから優しいのです」というお言葉があったが、すぐにメモしたのは言うまでもない。

 さて、ある時、お偉い方から弔辞の創作を頼まれ断れず、故人の情報とご本人の思いを取材し作成したが、これがとんでもない結果となり、それから私は、弔辞の代筆を一切しないようになった。

 その葬儀は他府県で行われていたが、弔辞を読まれたご本人に対して、葬儀の担当をしていた司会者が、「これは、大阪の久世さんの作でしょう」と言ってしまったからだ。
 
 私は、その司会者の方とは一度も会ったことはないが、講演テープなどの海賊版が蔓延っていた当時の苦い思い出となっている。

2002/06/28   悲劇の裏側で    NO 119

 ある時、若い娘さんが交通事故で亡くなられ、それは言葉で表現出来ないような葬儀となり、ご出棺前のお別れ時には、数十人の友人達がお柩を取り囲まれ、ご出棺が不可能な「ギャー」という世界となっていた。

「お名残尽きませんが」「お時間でございます」
 そんな残酷な言葉を出せない状況。外してあるお蓋に手を掛けようにも掛けられない事態。こんな時にそんな行動をすると、一声に「ギャー」という悲鳴の大合唱となり、「人でなし」という視線が突き刺さって来る。

 これは、我々葬儀社が最も苦しむ問題で、こんな時にこそ宗教者が「神変」というパワーで救いながら、決別の情を断っていただきたいと願うところである。

 そんな中、その葬儀は30分遅れでご出棺となった。お蓋を閉じる「悪役」をおつとめくださったのは親戚のおじさん。前もって私と打ち合わせていたシナリオが功を奏したようだ。

 前日の通夜終了後、午後11時を過ぎても式場から離れない友人達の存在。これまでの経験からもご出棺時の光景が予測され、おじさんとは、30分間の時間オーバーを考慮する話し合いをしていた。

 霊柩車、マイクロバス、ハイヤーなどには前もって事情の説明を済ませ、すべて納得の協力もいただいたが、最大の心配は火葬場で予想される問題の光景であった。

「死」を理解されない若い人達の心情、これは、卓越された宗教者のパワーを以っても解決が難しい世界で、おじさんと導師をおつとめいただいたお寺様の3人で作戦が練られる。

 私が火葬場で描いていたシナリオ。それは、安置をしてから30分間、「彼女のために涙が尽きるほど泣いて上げてください」ということだった。もちろん、その言葉の前後には宗教的な脚色を入れたが、泣いて上げてくださいと言った後、一瞬、静寂の時間が生まれたことが不思議であった。

 少し経って泣き声だけの時間が始まり、「ギャー」という世界はなく「しくしく」という時間が流れる。

 10分後ぐらいっだっただろうか、おじさんが予定よりも随分早く登場され、「皆さん、有り難う。**はきっと喜んでいるよ。こんな時は、あまり引き止めておくことはいけないそうです。お寺様が教えてくださいました。悲しい儀式が終わったら、次の世界へ生まれなければならないそうです」

 おじさんは、そこで泣き崩れてしまわれた。すぐにお寺様が前方に進まれ、「はい、納めてあげなさい」と担当職員に命じられ、台車が動き出す前に「カァーッツ」と、禅宗的引導作法のようなお言葉を叫ばれた。

「禅宗的」と言った背景には事情がある。このお寺様は禅宗ではなく「お念仏系」であられ、こんなお言葉を発せられることは絶対に考えられないことだったが、それが宗教者らしい「方便」であることを後で教えてくださったが、それは、そこでの最上の策で、見事な結実を迎えることが出来たことは確かである。

 さて、この悲しい火葬場でのお別れのすぐ後、「えっ?」という光景が見られた。見送りに来られていた友人達。それぞれの車に分乗されながら、「映画でも行く?」「ミナミに行こうよ」との会話が交わされていたことであった。

2002/06/27   ブラジル 珍道中  後 編   NO 118

 場所は、空港到着口を出た所にある両替所のすぐ近く。彼は、私がドル紙幣を両替するのを見ていたらしい。

「15パーセント増しで、両替をしてくれないか」と言うのが彼の頼み。所謂ヤミの両替行為となり、違法行為になる問題である。

 日本を出発する前、ブラジルに詳しい旅行会社のスタッフに、外貨が貴重なブラジルでは、外国に行く為のドル両替調達には「年間で幾ら」というような規制が設けられており、外国人の旅行者へのアタックが多いと聞いていたが、まさに、その体験であった。  
 
 周囲には大勢の人がいたので恐怖感はなかったが、何と言っても言葉が通じないのが恐怖。「ブラジル人の大勢の友人達が間もなく来る。それからだったらどうだ」ということで落ち着いたが、「20パーセントならどうだ」と言うので、よほどドルを必要としていたようだ。

 やがて待ち人達がやって来た。あらかじめの手紙と写真のやりとりから互いの顔が認識され、すぐに握手と抱擁という歓迎を受けたが、航空会社の勝手な変更で、相手側には8時間というロスタイムを与えてしまったことが口惜しい。

 羽田出発から38時間が経過。我々2人は、とにかくホテルで休みたいという気持ちがあったが、先方はスケジュールを決めておられ、タクシー乗り場の近くに止めてあった6台の車にそれぞれが乗り、まずは、おじさんの長男の家へと向かうことになった。

 運転されている人がご本人だそうで、片言の日本語が通じるので安堵したが、時差が12時間という国、飛行機の中の調整も効果がなく、いつの間にか眠ってしまっていた。

 急カーブの揺れで、ふと目が覚めた。時計を見ると空港を出てから1時間半が経過している。車は、サンパウロの郊外を走行していた。そこで、どのぐらいの距離があるのかと尋ねてみた。

「もう100キロを走った。後、300キロぐらいです」

 それがお答え。日本の10キロとブラジルの100キロの距離感覚の違い。それも旅行会社に教えて貰ってはいたが、<狭い日本、そんなに急いで何処行くの?>という交通標語の意味がよく理解出来た瞬間であった。

 息子さんの立派な豪邸に2日間お世話になることになったが、おじさんは、県人会や日本人会の要職を歴任されており、地元では著名な人物で、次の日には市長に表敬訪問するようなことも組まれてあり驚いたが、私が「ポルトガル語はダメ、英語なら少しは」と言ってしまったことがとんでもないことになっていた。

 市長室に招かれた時、高校の英語の先生という方が通訳として入られ、英語でのやりとりということになっていたのである。
 結果として、おじさんがポルトガル語と日本語の通訳として間に入られ、事なきを得たが、未だに忘れられない冷汗物語である。

 広大な国。おおらかなお国柄。10日間のブラジル滞在、それは私の人生観に大きく影響を与えてくれる貴重な体験となったが、ここには書けない珍道中が山ほどあった。

 また、何れ書くことになるでしょうが、そうそう、最も印象に残っている体験だけを結びに。それは、「ポエラ」と呼ばれる地道の砂埃現象で、車の行き違いで互いが30分ぐらいも停止しなければならないという想像を絶する別世界。北海道のスノーパウダーの砂埃バージョンと言えばご理解いただけるだろう。

 大阪の会合で知り合ったブラジル人女性から、「ポエラ」と言っただけで、親密感ある笑顔をプレゼントいただいたことも申し添えます。

2002/06/26   ブラジル 珍道中   前 編   NO 117

 ワールドカップ、ブラジルが決勝へ進出した。

オリンピックと異なり、これだけ各国の国民が盛り上がる競技大会であることを初めて知ることになった。

選手達のプレー、それは何より「生」の躍動を感じ、自分自身が生きていることを認識することにもなる。

 そんなブラジル選手の活躍を見ながら、20数年前に夫婦で南米に出掛けたことが懐かしく思い出されてきた。
旅行目的は妻の遠い親戚からの縁で、先方から存命中にどうしても会っておきたいという、切望に対する行動であった。

 ブラジルには10日間滞在したが、日本を出発してからは全くの珍道中で、大陸の大きさや国民性の違いを学んだことは貴重な体験となった。

 羽田を飛び立った飛行機、旅行会社の話ではロスアンゼルスに直行と言うことだったが、離陸して機長の機内放送で、貨物重量と燃料の関係から、アンッカレッジ経由で飛行するということで驚いた。

 これだけで約5、6時間の遠回り、知らない所を訪れることにもなるとプラス思考で考えてみたが、サンパウロの空港で到着を待つ方々には大変で、その連絡の術がないことが申し訳なかった。

 アンカレッジ、ロスアンゼルス、ペルーのリマを経由し、リオデジャネイロで国内線に乗り換えてサンパウロに向かう訳だが、リオデジャネイロでとんでもないスケジュール変更を余儀なくされた。

 リオデジャネイロとサンパウロの距離は、日本でいうと東京と大阪の距離。サンパウロにはビラコッポスとコンゴニアス空港の二つの空港が存在し、5時間の遠回りは、予定とは異なる空港に向かうことになってしまった。

 サンパウロの二つの空港も、約100キロも離れており、大阪から姫路ぐらいの距離がある。異なる空港で待ちわびておられる方々のことを思うと、気の毒でならない思いに襲われる。

 羽田を離陸してから35時間後にサンパウロに到着したが、案の定、出迎えの方々はおられず、案内所のスタッフが私の名前を書いたプラカードを持っており、そこでこの空港で「待ってください」という伝言を託された。

 事情を確認してみると、着陸予定の空港に到着しないということを先方が知られ、こちらに車で向かうとのこと。道路事情は解らないが、係りの方の話によると3時間程度を要するという。

 ポルトガル語圏の国に、右も左も解らない場所で、ただひたすらに待つ心細さは耐え難いもの。そんな時、パイロットのような帽子を被った人物が近づき、何かを喋りながら私達の荷物を外へ運び出そうとする。

 訳も解らずついて行くと、やがて、その人物がタクシーの運転手であることが分かり、自分の車のトランクに荷物を入れようとされる。身振り手振りで待ち合わせをしていることを伝え、米ドル札をチップとして手渡し、お引取り願った。

 そこで、迎えの方達が来られるまで通貨の交換をしなければと思い、近くにあった両替所でクルゼイロにチェンジした。

 そんな時、また、解らない人物が話し掛けてきて、ポルトガル語が通じないことを知ると、片言の英語でとんでもないことを言い出した。

    ・・・・・・・・・・・・ 明日に続きます

2002/06/25   感動的な光景    NO 116

 これまでに何度か書いたが、葬儀社の立場で大切なことは、故人とご遺族の「お心残り」を少しでも解決して差し上げること。そして、故人との思い出を参列者の心の中に「形見」としてお持ち帰りいただくことである。

 心残りの解決につながるシナリオ構築。そこで私が最も重要視していることは、参列者に「よかったね」という雰囲気が生まれること。

 私が発案し、協会メンバーの一部で実践され、大好評を博している「命の伝達式」などは、そのひとつである。

 今日のご葬儀で感動する光景があった。葬儀の形式は、故人のご遺志やご遺族のお考えから無宗教形式で、故人の「お心残り」のひとつが、最近に誕生された「初曾孫さん」のお顔を見ることが出来なかったこと。

 故人には5人のお孫さんがおられ、お一人ずつお別れの言葉を捧げられ、最後に登場されたお孫さんが誕生されたばかりの曾孫さんを抱かれ、「お爺ちゃん、初曾孫の**よ」と語られ、式場には涙のひとときの中に「よかったね」というあたたかい空気が生まれていた。

 この「独り言」は、多くの同業者の皆さんが訪問されており、企業秘密となることは表面化出来ないが、弊社では、上述の解決を指針し、ご遺族に様々なことをお願いすることに積極的に取り組んでいる。

 これらは、宗教に基く形式、無宗教形式を問わずに進めているが、特に無宗教形式では、ご遺族と共に式次第を構築することが喜ばれている。

 今、全国の葬祭業者さんが「無宗教が出来ます」と、お題目のように謳っておられるが、「会」や「集い」ではなく、「式」と感じていただける形式を提案出来るノウハウ、ソフトを有しているのは、日本トータライフ協会に加盟するメンバーだけであろう。

 私が担当する無宗教形式は「礼節」を重んじ、通夜に代わる「前夜式」と葬儀当日の「告別式」との両方を、全く異なった内容で式次第を構成し、司会という単なる「進行係」ではなく「司式者」としての誇りを抱いてマイクを握っている。

 これは、ご体感をされた方にしかご理解いただけないだろうが、宗教者がおつとめになられる「お説教」や、葬儀当日に行なわれる「引導」「告別詞」の真似事も行なっており、前夜式には参列者へ。告別式には故人へと、非常にテクニックを要する「語り掛け」を担当している。

 故人の思い出のお写真を編集し、フォトビデオを放映することが流行しているが、弊社の場合は、前日と当日の音楽、ナレーションが全く別のものとなり、両方に参列された方々から驚愕されたお声を頂戴することも少なくない。

 無宗教の潮流は、熱帯低気圧から台風へと確実に発達してしまっており、我々葬祭業者や宗教者の皆様への危機感に波及してきている。

 「新しき」変革は「古き」を知らなければ出来ないと言われ、「古き」を学ぶと無宗教への矛盾と、後日に生まれる「人間の弱さを」の表面化の問題を知ることになる。

 この部分での解決。それには、宗教者のパワーが重要であることを理解しながら、苦悩する時代を迎えている。

2002/06/24   悩んでいます    NO 115

 葬祭業は年中無休で24時間体制。電話の留守番機能が全く必要のない世界である。

 そんなところから、スタッフの休日は交代制となり、全員揃っての慰安旅行も不可能となるし、忘年会、新年会なども「お通夜」を原因として、毎年、数人が欠けてしまう。

 全国で行なわれる日本トータライフ協会の研修会、これも経営者として頭の痛い問題で、今、私の大きな悩みの元になっている。

 来月、北海道で開催される研修会。誰を出席させるべきか、その答えが未だに出せずに苦しんでいる。

 これまでの研修会では、出席人数だけで申し込むことが可能で、前日、当日の参加者変更も出来たが、今回、そうとはいかない。憧れの夏の北海道で、希望者が多いことは当然だが、悩みの元は宿泊するホテルのルーム配分に難しい問題があるからだ。

「シングル」「ツイン」という簡単なことではなく、コテージ風の多くの部屋を予約しているところに、男性、女性の問題が絡んで来るのである。

 今回の研修テーマは、協会が知的所有権を有する「社会賛同型」サービスの徹底教育で、研修会で研鑽したオリジナルサービスは、今秋頃には全国で実践され、大きな話題を呼ぶものと自負している。

 それにしても、研修会は回を重ねるごとに参加者が増え、嬉しい限りであるが、開催地担当メンバーや理事長、副理事長の責務も平行して重くなってきている。

 今年になってからの研修会では、「人間学」「儀礼学」「人生表現学」というテーマが行なわれたが、今回の北海道では「愛と癒しのサービス心理学」となり、研修終了後に授与される「終了証」は、加盟メンバー、参加者達の大きな誇りとなっている。

 一方で、今秋の研修会は大阪。開催地として担当するメンバーは弊社と神戸の公詢社さん。公詢社さんには、阪神淡路大震災でご体験された未曾有の「悲しみ」と「命」について講師を願い、弊社は、今、社会ニーズの高い無宗教葬儀について、全国で最先端と言われているノウハウ、ソフトの提供を考えている。

 大阪の研修会の日程は11月下旬を予定し、一般の皆様への無料公開講演も考慮しているが、会場に限りがあるところから、お葉書やメールなど、弊社へのお申し込み方法が検討されている。

 北海道研修会まで半月余り、私が担当しなければならない部分の資料作りも大変だ。時間を見つけては取り組んでいるが、この「独り言」の推敲にも追われ、愚かな頭の中はパニック状態。

 今日と明日には、無宗教形式による前夜式、告別式の担当もある。このシナリオ創作も私の担当。文字の入力しかしていない私のノートパソコンの中は、今、300万を越える文字で溢れている。

2002/06/23   郷 愁   NO 114

 私は、8歳まで三重県の伊勢で育ち、小学校の1年、2年を分教場に通っていた。

 伊勢は母方の地で、今でも古い家が残っているが、3歳半の9月に襲来したジェーン台風で、屋根が完全に吹き飛ばされた恐怖の体験を鮮明に覚えている。

 烈風というべき台風であったが、屋根が吹き飛んだ原因は他にあることを後年に知った。
 それは、母の兄が腕のいい建築家で、釘を一本も使わない建築手法の家だったからだ。

 数日前、懐かしい文字を新聞で見つけることになった。それは、「夜行日帰り」のカメラ紀行という旅行企画の広告で、「伊勢・伊雑宮 御田植祭りを撮ろう」との見出しがあった。

「伊雑宮」とは「いざわのみや」と読み、私は何度もこのお祭りに親に連れられ観に行ったもので懐かしい。

 因みに私が通った分教場も「いざわ」小学校で、この「お宮さん」から歩いて15分位のところだった。

 新聞広告に次の紹介が記されていた。

「日本三大御田植祭りの一つで、毎年この日に伊勢の磯部で開かれる御田植祭りの撮影会です。行事は、田に立てられた大竹を裸男たちが倒し、どろんこになって奪い合う「竹取り神事」から始まり、早乙女と田道人(たちど)が笛や太鼓で賑やかな音に合わせ苗を植える「御田植神事」、最後に伊雑宮までの道中を歌いながら練り込む「踊り込み神事」があり、それぞれシャッターチャンスでいっぱいです」

 この御田植祭りだが、永い歴史の流れの中に、亡くなった私の祖母も「早乙女」をつとめ、私の姉が「早乙女」として「田」の中にいた姿も焼きついている。

 その当時、もうひとつ心に残っている思い出がある。学校で竹の棒で日の丸の旗を作ったことで、ある日、現在の近鉄志摩線に沿った道路に面する小高い丘に並び、車列に向かって旗を振った。

 車は、アンタッチャブルに登場するタイプの車で、小豆色だったと記憶しているが、昭和天皇の行幸であられた。

 その時かどうかは曖昧だが、昭和天皇がご昼食をお召しになられた料理屋が私の親戚で、その店は今も活気を見せており、伊勢方面に出掛けた時には「おじゃま虫」という迷惑を掛けている。

 皇室に関係するお話を、こんな「独り言」に明記することは恐縮の極みだが、ある葬儀で最も緊張した出来事があった。

 普通のご家庭の葬儀で、極めて普通のお通夜が行なわれていた。その葬儀は、ある瞬間から特別な葬儀への形式変更を余儀なくされることになった。

 故人は、昔、宮内庁におつとめで、お通夜の終了後に、皇室からの「御供物」が届けられることが解ったのである。

 御供物は、葬儀の日の午前中に「御使者」によってお届けいただくことになったが、役所、警察など、ものものしい態勢で進められたが、私達もご祭壇の中に別格のスペースを設けることになり、一睡もせずに万端の打ち合わせを行なったことも懐かしい。

2002/06/22   マスメディアの誤解    NO 113

 少子高齢社会の到来を向かえ、葬儀に関する記事やテレビ番組などが多くなり、タブー視されていた世界がオープン化されてきたとの考えもあるが、誰もがその日を迎えることが確実である以上、他人事ではなく自分のことであり、極めてあたりまえの時代だと思っている。

 マスメディアが取り上げるテーマは、「葬儀の費用」「個性化と多様化」「人生表現」「宗教観の稀薄」が多いが、「費用」に関しては全国紙、NHKでさえ大きな誤りを侵してしまうから恐ろしく、面白いところだ。

 全国の慣習の異なりを理解せず、総経費について東京、大阪から始まり、全国都道府県の平均値を表示されることもあるが、親戚や参列者への接待の風習の異なりは、それだけでも数十万円の差異が生まれる事実を知らなければ、ジャーナリストとしては失格であろう。

 接待関係の他に大きな勘違いがあるのは、総経費の中に「香典返し」を入れてしまっていること。

 香典返しを「費用」と考えるなら、香典の金額を「収入」として表記しなければ貸借対象にならない筈だ。

 すべての分野で、社会アンケート調査とはいい加減なものが多く、一企業単体が「この方向に動かそう」という、意識的な結果を発表することも少なくない。

 ある葬儀社さんが嘆いていたことがあった。50万円の葬儀を受注されてから3ヵ月後、その葬儀が400万円も要したと、近所で風評が流れていたのである。

 噂の発信元は「ご当家様」。どのぐらいの費用が?との問いに、「400万円ぐらい」とお答えしておられたからである。

 では、その「ご当家様」は虚言ということになるのだろうか。決してそうではない。

そこに葬儀費用の複雑な問題が絡み、ややこしい情報伝達となる訳だが、飲食費、御布施、葬儀社関係費用の他に、中陰期間の法要関係費用、仏壇の購入、墓地と墓石となれば400万円となってしまうのである。

また、葬儀社への支払い金額の中に、ご当家の負担でない筈の「供花」まで含んでしまうことも少なくなく、金額が膨らんでしまうことになる。

葬儀は「非日常的」なことであり、未経験な世界での「一人歩き」ということが多く発生し、勝手な思い込みは、時に大きな誤解につながる危険性も孕んでいる。

上述の「50万円と400万円」で、葬儀費用が「400万円」と勘違いされたらどうなるのだろう。内容を理解しない先入観から「当家も400万円で」となれば、法要、仏壇、墓石となると、総計600万円という膨大な費用になってしまうことになる。

マスメディアが葬儀の問題を取り上げられる時、これらの分析をされなければ、読者、視聴者の誤解と混乱を招くだけではなく、我々葬祭業者が悪役としてキャスティングされてしまうことも知って欲しい。

今後、無駄を省く考え方が強くなり、家族葬、自由葬、無宗教形式などが増えるだろうが、人生表現を求められる個性化、多様化対応は絶対に避けられない。

人生それぞれが異なるように、葬儀も異なるべきというオリジナル形式の潮流は、葬祭業界、宗教界への変革要求で、そんなビッグバン的な社会ニーズは、すでに10数年前に始まっており、今、やっと表面化してきた背景を忘れてはならない。

2002/06/21    接 待    NO 112

 ビジネス社会では「接待」ということも重要で、企業が消費する接待交際費は膨大なものである。

 社会不況にあって、接待の形式にも変化が見られるが、男性社会ではクラブなど、酒と女性が存在する世界の主流は変わらないようだ。

 私は、接待を受けることが大嫌いで、ご招待の大半をお断りしている。

 どんな仕事でも仕入先、お客様の存在があり、「する」「される」の問題が発生し、その背景には「義務」と「権利」という言葉まで飛び交っているが、「されたくない」という権利を理解されることは少ない。

 一つの仕事で出会う、異なる分野のプロとプロ。その関係は、いつもヒフティー・ヒフティーでこそ、いい結果が生まれる。そんなかたちで友人関係となった人が多い。
 
 こんな考え方が生まれたのは、外国で受けた接待からで、「何を欲するか?」「それ以外はフリー」という接待方法に大きな喜びと共感を覚えた。

 ある時、我が業界に関係する大手企業から講演依頼を受け、雪による交通機関への影響を考慮し、前日に入る約束はしたが、ホテルに着くなり勝手な接待スケジュールが組まれており、忍耐の2日間となった苦い思い出もある。

 生意気なことを上述したが、接待嫌いの理由として、病的とも言える「偏食」がある。ベジタリアン的なタイプと呼ばれる私にとって、食することの出来ないものが登場するだけでも苦痛となり、食事の時間を過ごすなら、自分が欲するものを食したいという考え方も強い。

 さて、「今日は接待だ」と友人に誘われ、ある名の通った小料理屋さんに行った時の出来事である。
 そこは、彼のお気に入りの店で、彼がかなりの常連であることは、入店した時の雰囲気からすぐに解った。 
 
テーブルに向き合い、取り敢えずビールで乾杯というところで「突出し」が登場した時、
彼が「しまった。重要なことを忘れていた」と言うなり、私を促し、オヤジとテーブル担当の女性に謝罪の言葉を述べ、申し訳なさそうに小額の料金を支払うと足早に店外に出た。

「別の店へ行こう」。それが私への第一声であった。

「重要なことを忘れていた」と言った言葉、訊いて見ると、それは「方便」であった。

 次に訪れた割烹で、彼は、私にまで謝罪の姿勢を見せ、お気に入りの店を一軒失った淋しさを語り始めた。

 さっきの店で何があったのか?。それは、ビールをひとくち飲んでグラスを置いた時に発生していた。ビール瓶の横に置かれていた市販の「胡椒」の器。そこに張られていたシール。その文字が目に入ったというのである。

 シールに打ち込まれていた数字、それは賞味期限の日付で、中身は十分入っていたが、期限は半月前に切れていた。

 「期限」が「機嫌」を損ねる。名の通った店にも、意外な盲点があることを学んだ接待となった。

2002/06/20   JRさんへ・・お願い   NO 111

 東京でのスケジュールを終え、帰阪した。
 
過去に書いたが、私は全国への出張が多く、新幹線から在来線の特急列車の時刻表がだいたい頭に入っている。
 
飛行機嫌いから新幹線利用が多くなり、ある時は1週間で5000キロということもあった。

 自宅から新大阪駅までの交通手段として、環状線の最寄り駅から大阪駅経由で約30分。タクシーなら渋滞時には1時間を要し、料金は約5000円となる。

 そんな中、ビジネスマン達が重宝している、もう一つの手段があるので紹介申し上げる。

それは、天王寺駅からの利用で、地下鉄以外に、30分に1本ある特急「はるか」と、
1時間に1本ある「くろしお」「オーシャンアロー」の利用なのです

 ユニバーサルスタジオのオープンから、途中で西九条駅に停車する列車もあるが、天王寺から新大阪駅まで直行で16分から20分。新幹線「乗継料金」が適用され、特急料金は310円。時間に正確で「得」した気分になる活用となる。

 携帯電話が離せない立場にあって、特急列車は有り難い。マナーモードでデッキという方法が許されているからで、地下鉄や環状線では、乗車中には「不通」ということになってしまう。

 さて、ここでJRさんに「何とかしなさいよ」、ということがあるので提起したい。

 環状線の最寄り駅や天王寺駅で東京までの切符を買い求めると、大阪市内〜東京都区内という取り扱いがあり、新大阪駅までの運賃を含むことになっているが、「乗継割引」の特典を理解されていない窓口担当者もおられ、何度か「乗継ですが」と切符の変更を願ったケースもあった。

 ある時、新幹線の切符だけを購入し、天王寺駅のホームにおられた駅員さんに「はるか」の車内で特急券を買えますかと訊くと、「買えます」とのご返事。乗車後に来られた車掌さんにその旨を伝えると、「これからは同時に買ってください」と言われた。 

 そんな体験をしてから、ずっと同時に購入することにしてきたが、今日、新大阪駅でおかしな体験をすることになった。

 東京駅で「のぞみ」の乗車券を買い求めた時、新大阪からの「はるか」の最終に間に合わないことから、新幹線だけの切符を買ったが、新大阪到着10分後に発車する「くろしお」の存在に気が付いた。

 そこで、新大阪駅の窓口で「天王寺駅までの乗継で」とお願いすると、「車内で車掌に言ってください」とのあっけないご返答。仕方なしに少し離れた窓口に並び直して再度挑戦。今度はすぐに対応してくださった。

 JRさんにお考えいただきたいことは、窓口でのサービスや「乗継」のシステムの徹底ではなく、切符を購入せずに乗車し、車掌さんがやって来られるまで待つ乗客の心理なのです。

 無賃乗車と考える車掌さんがおられないのだろうか。そんな不安を抱かせることは、サービスの世界では「欠如」という烙印が押されてしまうのです。

2002/06/20   先生、お元気でいらっしゃいますか?  NO 110

 今日は、出張中で、この原稿を東京のホテルで書いている。また、深夜の発信となり、日付が変わってしまいました。お許しくださいませ。

今、私の手元に一冊の本がある。昨日ご紹介申し上げた「林 一九〇」先生のご著書、「わが みおつくし」で、昭和50年にご発刊されたものです。
 
林先生の文章には、私が初めて知った言葉も多くあり、万葉集、和歌、川柳、宮中の御歌会始で皇太子殿下が御詠みになられたお歌などについて、先生にしか不可能だろうというような文章表現をされ、私がこれから100年勉強しても表現できないレベルのものです。

 世界的な詩人、作家、哲学者、芸術家、大統領などのお言葉も散りばめられ、それらが見事に解り易く解説されておられる文章表記、一生の中でこんなご本に出会うことが出来たことに感謝を申し上げております。

 数ヶ月前、ある新聞で名横綱「双葉山」が69連勝を阻まれた時の逸話が掲載されていました。

 その当時の新聞、ラジオの世界にあっては大ニュースで、見事な勝利を飾った力士が注目を浴びて部屋へ帰った時、親方が言われた言葉が素晴らしい。

「勝って騒がれる力士よりも、負けて騒がれる力士になれ」という名言である。

 この記事を読んだ時、ふと、林先生の「わが みおつくし」のご本が思い浮かんだ。
突出された高尚な文学と称すべき随筆の中に、私のような庶民の世界に合わせていただく「相撲」に関する逸話があったような思いがしたのです。

「確か」と思いながらページを追って行くと、ありました。2つの逸話が見つかったのです。そこで、今日は、そのひとつを原文のまま引用させていただき、ご紹介申し上げます。
 
< ある相撲取りが、会う人毎に勝った話ばかりするので、「関取! 強いとはかねて聞いていましたが、あなたは負けたことはないのですか」と尋ねると、関取スカサズ「負けた時のことは、勝った相手が話をして呉れていますわい」と、言ったと云うことであります。
 
勝負の世界にも“勝ちっぱなし”と云うことはないでしょう。況してや人生に“一生土つかず”など、あろう筈がありません。一年三百六十五日でさえ、来る日も来る日も小春日和のよい天気ばかりは続きません。それが一旦人事となると、“隣の花はいつも美しい”ように見え、人は皆百万円の宝くじを当てているように思われるものです。

 そうして自分だけが、丁度団体旅行の貸切列車に箱詰めされているように、病気はまるで引請け、貧乏を借切り、思い災難を一身に背負い込んでいるかの如く考え勝ちになるものです。

 青い鳥のメーテルリンクは「幸副を外に求めるのは、知恵を他人の頭脳に求めるよりも無駄なことである。真の幸福は、自分の心の内にある。日がのぼっても目を閉じれば闇夜と違わないし、濡れ衣を身につけていれば、雨天よりも気持ちが悪いものだ」と云っています>

 斎主をおつとめになられる時の先生の「祝詞」、その内容、お声、そして重厚なフィーリングは素晴らしく、入場されるだけでも、会場が完全な儀式空間に神変される威厳が感じられる先生。ご高齢になられた御身が気になってしかたがないこの頃です。

2002/06/18   出会いの中で   NO 109

 私のこれまでの人生にあって最高の宝物は、多くの方々と出会う「ご縁」をいただいたことだろうし、これは、これからも命終の日まで続くことであり、事故死がなければ、最期の出会いは、私の臨終を確認する医師ということになるだろう。

 葬儀に携わる仕事に従事していると、多くの宗教者の方々と接することになり、若い時代にはご叱責やお説教を頂戴したことも少なくない。

 この職業に就いて、世の中には「こんなお方がいらっしゃるんだ」と、大きな影響を受けた先生がおられる。その方は、黒住教大阪大教会所の所長であられた「林 一九〇」様。

「はやし いくまる」先生は、神道の世界を生きられる「本物の宗教者」でもあられるが、一人の人間として心から尊敬申し上げるお方で、時にやさしく、時に厳しく、様々なことをご教導くださり、葬儀という仕事の将来への取り組みにあって、北極星ともいうべき存在であられたと思っています。

 先生から頂戴した多くの著書を拝読させていただいたが、それは、人間、生と死、愛などをグローバルな観点から見事なまでに著され、今も時折に拝読申し上げる大切な「ご本」となり、お人柄に触れる貴重なひとときとなっている。

 昔、ある葬儀で、お通夜を前に、車でお迎えに行ったことがあるが、車中で拝聴したお話が印象に残っているので紹介申し上げる。

「人間とは弱いもの。迷信というものに左右されることもそのひとつです。次のような逸話がありました」

 縁側で爺さんが「お灸の用意をしてくれんか」と、婆さんに言った。しかし、婆さんは「あれ?」という風にしばらく考え、やがて暦を見られ、「今日は、お灸によくない日ですよ」と返答された。

 「わしにとっては良い日なのじゃ。用意をしてくれ」
 婆さんは、言い出したら聞かない頑固爺さんの言う通り、準備を整え、縁側で仲良くお灸の微笑ましいひとときが始まった。
 
 そこへ、近所の婆さんがやって来られた。「あれ? 今日は確か、お灸によくない日の筈だが?」

「そうじゃった。ばあさん、お灸は取り止めじゃ」

 しばらくすると、近所の婆さんが帰られた。「婆さんや、お灸の用意を頼む」

「取り止めじゃと、おっしゃったではありませんか?」

「今日は、わしにとってお灸に良い日なのじゃ」

「さっき来られた婆さんもおっしゃられたでしょう?」

 婆さんにぶつぶつ言われながら、爺さんはお灸を始められたが、その時に、ふとおっしゃられたお言葉が素晴らしい。

「悪い日が過ぎ去られたからのう」

2002/06/17   喜びの裏側で    NO 108

 ワールドカップで日本中が湧いている。予想もしなかった日本の予選リーグ1位。道頓堀から飛び込んだ人が1000人以上。美しくない水で「病気にならなければ」と心配している。
 
 さて、ワールドカップが始まってから、困っていることがある。それは、チケット予約に関することからだろうか、ノートパソコンの携帯電話が非常につながり難く、原稿の発信に支障を来たしたことが何度もあるからだ。

 一方で、日本中が喜びの中で「悲しみ」を迎えた人も多くいらっしゃる。何度も書いたように、我が国では1日に亡くなられる方が2700名様。サッカー開催中にご不幸を迎えられた方々のご人数は大変な数になり、ご遺族の皆様には、今後にあられて、サッカーやワールドカップの文字、言葉、映像をご覧になられる時、いつも故人を思い出されることになる。

 スポーツは人間の躍動の姿が感動を呼び、「生」の「証」となるべきものだが、勝者、敗者の背景には、様々なドラマが生まれているだろう。

 最近、全国で、葬儀の式場が騒がしくなってきているという声があり、宗教者の方々からも同意見が多く、義理的会葬者の会話を原因とする迷惑で不謹慎なオシャベリ、そのインテリジェンスの欠落に嘆いているが、悲しみの遺族の耳に入る笑い声だけは許せないところだ。

 ある時、九州の女性司会者から「いつも騒がしいオバサン達に困っています。お寺様が後ろを振り返られても止まらないのです」と掲示板に書き込んで来た。

 アドバイスとして、開式前の儀式空間の完成テクニックを返信したが、そんなオバサン達が亡くなられたら、「葬儀」ではなく「争議」の発生から「騒儀」となるだろうと付け加えた。

「共に喜ぶのは2倍の喜び。共に苦しむのは半分の苦しみ」という、ドイツの古い名言があるが、他人の悲しみを理解しようとされる「やさしさ」は、その人の人格の基本であるように思えてならない。

 人生には様々な衝撃との出会いがあるが、最も苦しくて悲しいことは、子供さんを亡くされることだろうし、それが事故や事件という突然の悲劇ともなれば、想像を絶する悲嘆に陥ることになる。

 昔、4歳、11歳、18歳と、3人の子供を亡くした著名人の言葉が印象に残っている。
 その悲劇の主人公はアブラハム・リンカーンで、次ような言葉を残しておられる。

「私達が住んでいるこの悲しみに満ちた世界にあって、悲しまない人は一人もいない筈です。悲しい時は、胸が張り裂けられるような苦しみを味わいますし、それは、時を待たねば完全に消え去りません。やがて、いつの日にか、心が晴れる時が来るとは、今は夢にも思わないことでしょうが、あなたは、きっと、また幸せになれます。この確かな真実がお解りになれば、今の惨めな気持ちが少しは和らぐ筈です。私は、自分自身の体験から申しているのです」 

 大切な方を失う悲しさ、それは、果たして時間の経過で解決出来るのだろうか。薄らぐことがあっても、絶対に解決にはならない。それが私の考えである。

失った「もの」の代わりは有り得ない。なぜなら、「もの」は「者」であり「人」であるからだ。

2002/06/17   ああ、難しい問題だ。  NO 107  

 ハードスケジュールで、この発信は、午前0時を少し過ぎてしまい、16日付けではなく、17日付けとなってしまいますが、なにとぞご海容くださいませ。

 ある日、一本の電話から、衝撃を受けることになった。

お電話をくださったのは、先月にご葬儀を担当させていただいたお客様。お話の内容は予想もしなかったことだが、今後に大きな問題があることから悩んでいる。

悩みとは、著作権や肖像権など知的財産に関係することで、近い将来に法的に対策検討をしなければならない問題でもある。

そのご葬儀では、遠来のご親戚のお一人が、ビデオがご趣味のようで、お通夜からご葬儀のすべてをデジタルビデオで収録されておられた。

ご出棺後、火葬場に到着された際、「ここでは撮影禁止になっております」とさりげなくアドバイスを申し上げ、撮影されることなくほっとしたが、帰路の車内で「まさか」というようなことをおっしゃられ、危惧していたことが現実となって驚いている。

ご本人は、弊社の葬儀の形式に驚かれ、「最先端の葬儀が収録出来ました」と言われ、私の立場では喜ぶべきところであるが、満中陰に再度来阪され、喪主様に、その編集ビデオが思ってもいなかったところへ、ダビングしてプレゼントされたということが表面化した。

喪主様も、親の葬儀の収録ビデオが他人に流されるということが耐えられず、私に電話をされて来られたが、何と言ってもプレゼントの相手が問題であった。

なんと、その方のご友人が私と同業者で、ご帰宅されてからご自宅で撮影会を開かれ、見られた同業者さんが「ダビングしてくれ」というのが始まりで、撮影されたご本人は「凄いだろう」と悦に入ってしまったようだ。

「著作権で押さえることは出来ないでしょうか?」
それが喪主様のお考えで、弊社ではどうすることも出来ず、残念ながら、そのご親戚の方に最善の解決を願うしかないとお応え申し上げた。

これまでにも、新聞で社葬告知された葬儀を担当すると、必ず数社が会葬者に紛れ、ビデオや録音機で隠し撮りをすることがあったが、これらもどうにもならず、黙認してきた経緯があるが、ご親戚の方から業者に流れることは予想もしなかったことで、デジタルビデオの流行の時代、これらの防御を何とかしなければならないようである。

 私達の業界は、知的所有権に対する考え方が低く、とんでもない事実にぶつかることもあった。 

ある時、葬祭用品を販売する会社のセールスが来社され、司会の収録された極秘テープを販売しておりますということから、「さわり」だけ聴かせてよと懇願して驚愕した。

その声が誰か、すぐに解った。「この司会者のことを知っている」と言うと、相手は「誰ですか?」と返してきた。

「それは、私」「・・・・・・」 

後はご想像にお任せいたしますが、知らない内に収録され、販売されている。私がそれで幾らかの利益を得ている。そう誤解されることだけは許し難いことである。

2002/06/15   今日の欲望   NO 106

 昔、知り合いのおばさん達が10数人集まり、あるお寺へお参りに行く計画が練られていたことがあった。

 <信仰心厚く、殊勝なことだ>と思いながら詳しく聞いていると、そのお寺は「ぽっくりさん」の愛称で呼ばれ、身内や他人に迷惑を及ぼさずに臨終を迎えるという、「ぽっくり死」を祈願に行くという計画だった。

 そんなお寺の存在が少なくなく、このような信仰の行為がある事実に興味を持っていたが、それらに行動される方々の大半が、女性であることも知った。

 ある時、近所で80歳の女性が亡くなられた。その方は、前日の遅くにご入浴。その後、「おやすみなさい」と2階に上がられたのが最期のお言葉。起床されて来ないので起こしに行ったら安らかに旅立っておられたそうだ。

近所の方々は「何と楽な往生だ」「自分で湯灌をされた」と話題にされたが、ご遺族の方々には「検死」から法的な「解剖」という衝撃的な死となってしまった。

臨終時の会話、それは「決別の情」として絶対にあって欲しいし、本人、家族の両者に「死の覚悟」の状況が生まれることは望ましいことだろう。

 この世に生を享け、両親に育まれ、学業を終え社会人となり、「えにし」に結ばれて結婚。やがて子供の誕生。そして自身が歩んだ道を子供達が進む繰り返し。

 子供が大学を出るまでは。結婚するまでは。孫が誕生するまでは。孫が結婚するまでは。曾孫が誕生するまでは。

 そんな夢を抱いて生きて行く。この願いは「欲望」と言われるかも知れないが、人間に許されることであろう。

「もう、思い残すことはない。やるべきことはすべてやった。お前達も立派に育った。私は人として生まれ、人に役立つことをすることも出来た。堂々と安心して来世に旅立つ」

 ナレーションの取材時に、そんな最期のお言葉をご遺族から伺ったこともあるが、こんな言葉を遺すことの出来る人が、一体、どれだけおられるだろうか。

 ナレーションの取材を担当する際、必ず「ご最期のお言葉」をお聞かせいただくが、男性の場合、「お母さんを頼むよ」というケースが多いのが特徴。

一方で女性の場合、「お父さんのことだけが気掛かりね」というのが多いが、妻に先立たれた男性のその後は弱くて惨め。母と呼ばれる女性は強いということを、いつも学ぶところとなる。

 今、私の一人だけの孫が、娘と共に自宅に里帰りしている。深夜に高熱を出し、朝から医師の診断を受け、「夏風邪」ということでほっとしたが、結婚という時期までとは言わない。せめて小学校の入学式を見届けるまでは「頑張らなければ」との欲望を抱いている。

 「生かされている」ことが終わる日の訪れ、それはいつか解らないが、この世に生まれた宿命として、その日も定められている筈だ。

2002/06/14   親の葬儀から   後 編    NO 105

 「葬儀屋さん、オヤジの時から8年、葬儀の物価の変化はどうなっていますか?」

 火葬料金、霊柩車料金、ハイヤーに始まり、8年の月日の流れに、何もかもすべてが値上がりしていることは事実であるが、どうにも返答に困る質問であると難渋をしていると、今度は、弟さんが発言され、兄弟3人の討議が始まった。

 「物価の上昇のパーセンテージで考えると、あの当時の70万円は、現在、90万円ぐらいかな。100万円までは行っていないと思うな」

 「仮に100万円だとして、オヤジより立派なことはおかしいし、女性ということからも7割から8割ということで、70万円から80万円でどうだろう。みんな、どう思う?」

 円卓を囲んで座りながら、ご兄弟のこんなやりとりを拝聴していた時、少し離れた所のソファーで腕を組んで見ておられた人物が、突然、「馬鹿者!!」と、大声を張り上げられ、円卓の輪の中に割って入って来られた。

「葬儀屋さん、愚かな息子達で恥ずかしい限りです。どうか、この私に免じて許してやってください」

 重くて厚い礼節を感じる方のご登場。ご本人が、8年前に亡くなられたお父様の兄であることを教えてくださった。
 
「お前達は、いい歳になって、なんの成長もしとらんではないか。嘆かわしいことじゃ。葬儀はお前達が取り仕切ることだと考え、黙って聞いておったが、もう我慢ならん。お前達の親父に代わって説教をやらなければならん」

 このおじさんは、彼らにとって怖い存在の人物であったことが伺える。おじさんが胡坐を組んで座られた時、彼らは全員が咄嗟に、正座に座り直したからだ。

馬鹿者、という声が大きかったことから、炊事場や故人がおられるお部屋にいた方々も寄って来られ、外側を取り囲まれるが、ひとりのおばさんが「ご本家の意見としてお聴きしなさい」とおっしゃったことからも、ここでは最も存在パワーがあられることも知った。

「ええか、物価の変化がどうした? 相場が云々。ここまでならまだ許そう。しかし、お前達には<送ろう>とか<母の最期>という気持ちがひとつも伝わって来ないことに腹が立つ。お母さんが哀れでならん。きっと、お前達の親父もあの世で怒っている筈じゃ」

 3人の方々の後方には、それぞれの方の伴侶達も座り出しているが、お孫さん達は、場が普通ではないことを察したようで、遠ざかってしまっている。

「なんだ? 男に比べて女だから7割? 8割? 葬式で男女差別をして何を考えているんじゃ。なあ、葬儀屋さん。あんたも説教をしてやってくださらんか」

 これは困った立場になったではないか、でも、この場が何とか治まるようにしなければならない。私は、<仕方がない>との覚悟で、言葉を切り出した。

「8年の月日の流れを<ご成長>とお考えになればいかがでしょう。お父様をお送りされた時はそうだったが、8年の月日で、私達もこのように立派に成長することが出来ました。お父様より立派な葬儀ですが、お陰様でお母様をこんな葬儀で送ることが出来るようになりました。お父さん、叱らないでね」

 そこまで言った時、おじさんが私に近づいて来られ、いきなり握手を求められ驚いた。

「よく言ってくださった。私の言いたかったことは、そのことなんじゃよ」

 お陰で、お父様の時よりも盛大な葬儀となってしまったが、息子さん達もご納得をされていたことだけは確かであった。

2002/06/13   親の葬儀から   前 編   NO 104

 これまでにも記したことがあるが、日本の葬儀は「儒教」の上に成り立って来たという社会背景。今日は、僭越ですが、そんなことに関することをしたためます。

 人間の生老病死という「四苦」の悟りに生まれた仏教は、中国の大きな影響を受け日本に伝来したが、この間に「死の脅威」の超越という方向にグローバル化された背景に、儒教的な思想が加味されてきたと言われています。

 ある大学教授の講義で、孔子を中心とする「儒家」の人々の生業のひとつが「葬祭業」であると拝聴し、私達の大先輩なんだと驚いたことがありました。 

 殷・周・秦・漢という永い中国の歴史で、周の時代に「先王の道の教え」という「道教」の誕生もあり、佛教との迎合の中に「孝」「徳」「仁」「礼」という思想が溶け合ってきたように思えるし、現代の「先祖供養」型の葬儀の「ありかた」に頷けるところなのです。

 10年ほど前、ある葬儀で印象に残っていることがありました。その葬儀は、20代から30代の4人の子供達が、母親の葬儀の打ち合わせ時に見せられた言動で、在日の韓国人の方々らしい感動があったのです。

「葬儀屋さん、当家は貧しいのです。でも、父が早くに亡くなってから、母が立派に私達を育ててくれました。今しか恩返しが出来ないのです。我々兄弟4人であちこちから借金をしてきました。ここにこれだけあります。足らなかったら、みんなで駆けずり回ってお金を借りて来ます。どうか、母が喜ぶ立派な葬儀をお願いします」

机の上に置かれた浄財的なお金は、100万円ぐらいはあっただろう。私は4人の子供達の真剣な顔つき、そして平身低頭される姿に恐縮し、思わず仕事の立場から離れてしまうことになってしまった。 

 「もう、立派なお葬式が出来上がっているではありませんか。皆さんの今のお言葉とお仕種です。それがお母さんへの最高のプレゼントではないでしょうか」

 お母様は、素晴らしい教育をされて来られたようだ。導師をおつとめいただいたお寺様も、あたたかいお母さんへの感謝の思いと、礼節感あふれる接し方に感動され、「お母さんが喜んでいますよ」というお言葉を、お説教の中でおっしゃられたことも嬉しかった。

 飲食費、御布施、弊社関係などを含めて、葬儀の総費用は86万円。弔問、会葬に来られた方々とご遺族の会話が耳に入ったが、「お金は、足りるのか?」と、ご心配されている方が多く、立派な子供たちを見事に育て上げられたお母様に合掌申し上げた。

 一方に、日本人の方で、お父様を亡くされてから8年後にお母様をお送りされるという葬儀で、40代、50代の3人のご兄弟達が、打ち合わせ時に、親戚のおじさんにこっぴどく説教をされたという出来事があった。

 葬儀の日程や形式が概ね決定され、予算の決定段階に入った時のことだった。喪主をつとめられる方が、次の様なことをおっしゃられたことが始まりだった。

「確か、オヤジの時の祭壇は、70万円だったと記憶している。皆も覚えているだろう」

 ここから現実的な会話が交わされることになる訳ですが、顛末は、明日に続きます。

2002/06/12   たった、ひとり   番外編   NO 103

 お母さんの遺志の尊重、娘さんの貯金の範囲内での葬儀。このキーワードは何とかクリアすることが出来たし、この上ない悲しい葬儀の中で、丸一日の2人の時間プレゼント、それは、おばさんと私の信頼によって生まれたものである。

 お母さんは、ご近所の葬儀にはいつもお手伝いをされ、お香典を包んでおられたそうで、続いては、お香典を受けるか辞退するかという論議に入った。

「香典返しが大変よ。**ちゃんが苦労されるし、私は辞退する方がよいと思うの」

 絶対にお受けするべき、それが私の考えであった。香典返しの大変な作業は理解できるが、今回は、そこに重大な意味があることを知って欲しいとの思いから、おばさんに対して、熱い説得を試みることにした。

 「香典は、お母さんにお供えされるためにご持参される意味もありますが、それぞれの方が、自身の悲しさをお香典という行為に託されてくるものです。これだけの悲しいご不幸に、その思いを辞退されてしまうことは絶対にいけないことだと思うのです」

 「・・・・・」

 「それから、葬儀を終えられてからのことをお考えください。本当の悲しみは、葬儀が終わってから押し寄せてきます。その時にやらなければならない作業工程、それがお母さんに何らかのつながりがある方々への礼節と考えれば、これからのお嬢さんの<けじめ>としても重要ではないでしょうか」

 「**ちゃん、お受けすることにしましょう。さすがにプロの意見で納得できるわ。ひょっとして、私達の知らない人達からも届けられるかも知れないし、お母さんが、どんな方々と、どんなおつながりがあったかを知ることも重要ね」

 ご供花に続いてお香典もお受けすることが決まった。悲嘆の強い時期に救いとなることは、やらなければならないという責務の存在や、日常的に決められたことを遂行していく環境を整えることもある。そんな中で、大変な香典返しの作業は、初七日から満中陰までの供養と共に、大きなメリットの生まれる日本的な慣習である。

 近所の方々へのシークレットから、ご納棺もお通夜の日の朝にした。ただ、ご遺体の処置だけは、目立たないような配慮でスタッフ達が明け方に訪問し、解決をした。

 不幸な親子と、あたたかいおばさん3人だけの仮通夜の日が過ぎた。次の日の朝、娘さんのお顔は、寝不足を感じる中にも、さわやかな表情を見せられるようになっていた。きっと、尽きるほど涙を流されたからだろう。

 嬉しいことに、ご供花は、会社、ご近所の他に、呉服屋さん、お医者さん、看護婦さんからも頂戴することになった。お陰で祭壇は立派な花祭壇として完成し、弔問者の大好評を博することになった。

 「司会は、絶対にあなたよ」「当然、私が担当します」
 
 そんなやり取りがされた時、私は喪主から葬儀社の立場に戻っていた。その時の「愛と命」の言葉を散りばめたオリジナルナレーション、それは、今の私の世界での原点となっている。

 結びに、そのおばさんも、今はこの世の人ではない。私が送らせていただいた。また、その後、娘さんはご結婚され、3人の子供さんがおられることを風の便りで知った。
 血縁が生まれた。どうぞ、お幸せに。

2002/06/11   たった、ひとり   後 編   NO 102

 「**ちゃんが、自分の力でお母さんの葬儀を行なうこと。それを大切に考えて欲しいの。葬儀屋さん、あなたなら出来るでしょ」

 彼女の全財産37万円ですべてを取り仕切る。お母さんが遺された結婚の時の為の資金、それには一切、手を付けない。
お母さんは、自分の葬儀は柩と火葬だけというお考えだったそうで、娘さんに対して、葬儀による負担を強いることを望んでいなかった。

それが、おばさんから伝えられると、私は、喪主の立場から、<それでやるしかない>と心を決め、現実的な内容を含め、具体的な「かたち」へのシナリオ構成を進めた。

「お母様を、どのようにお送りされることが望ましいのか。また、お嬢さんがお母さんにどんなことをして差し上げたいのか。この2点を真剣にお考えください」 

「私と母の最期の時となってしまいます。母が喜ぶことは・・・  でも、母が笑われないことだけはしたいと思っていますが・・・」

 私が初めに提案したのは、葬儀の日程であった。ご逝去の事実は、この時点で、この場にいる3人と、臨終を看取られた医師しか知らないところからの発想で、一般的スケジュールで進めると今晩がお通夜になるが、今日の1日は、親子だけの仮通夜として、誰にも知らせないという案を申し上げた。

 「それ、いいわ。やっぱりあなたね。**ちゃん、どう? 1回だけしか出来ないことだし、して欲しいことがあったら何でもいいから言ってね。今晩は、私と2人で静かに過ごすの、そして、いっぱい泣きましょうね」

 「少しでも一緒にいたいのです。そんなことが出来るなら嬉しいお話です」

 意見は、一致。シークレットの作戦会議を始めたが、すべてはおばさんの演技力に掛かっている。医師への連絡もお願いし、もしも近所の方に知られた時の作戦も提案。その場合は、おばさんが「今日はふたりだけ」という「ガード」を張って守っていただくことになった。

 このシナリオには、ひとつの関門があった。それは、宗教に関することで、お父様の葬儀の導師をおつとめいただいたお寺様の存在で、枕経をどうするかということ。
 
しかし、これに対してもおばさんの存在パワーは強く、その住職とはPTAの役員同士のつながりから、夜が明けたら参上して事情説明を行い、平服でおばさんの家に来ていただいてから進めるという知恵を授けてくださったが、お布施のことも「任せなさい」とおっしゃってくださったことも有り難かった。

 とにかく決まったこと、それは、2人だけの静かな仮通夜の決行。

やがて、祭壇の形式もお柩を中心にやさしいイメージのお花で囲み、白木祭壇を一切設営せず、女性的でシンプルな祭壇を考慮することが決定。おばさんのご供花や隣組の方々、彼女の会社からお供えされるであろう供花を、すべてお名前を割愛し、祭壇を飾ることに活用することになり、その決行におばさんが全面に協力していただけることになった。

柩、枕道具、線香、ローソク、ご本尊、霊柩車、ハイヤー1台、遺影写真、挨拶状、ドライアイス、宗教用具、通夜、葬儀の参列者への返礼品、御布施、そして、葬儀に関する人件費一切を含めて30万円と少し、そんな予算も決定され、彼女の会社にもおばさんが
電話連絡をされることになり、今後の仕事の立場に差支えがないような配慮まで考え、「愛を訴える」作戦でお願いするシナリオが完成した。

そうそう、この予算のお話の前に香典に関するやりとりもあったが、それは、明日の番外編に続きます。

2002/06/10   たった、ひとり   中 編   NO 101

 ご逝去されたのは、ご自宅。彼女は、病状の悪化から、10日ほど前に看病のため会社を休職。それまでは、このおばさんが毎日、定期的に訪問看護をされていたことも知る。

 おばさんの力添えで掛かりつけの医院から、この日を迎えるまでの約3ヶ月間往診が行なわれ、1時間前の臨終を看取ったのは医師と3人だけ。そのことから死亡診断書発行に関し、検死という最悪の事態が避けられたのは救いだったが、50歳にも満たない母と呼ばれる女性の死が、無性に悲しかった。

最期の言葉は、医師とおばさんへの「有り難う」。そして彼女には「あなたは強い子。しっかり生きるのよ。ごめんね。・・結婚・・・」だったそうだ。

 彼女の両親は、どちらも一人っ子。両家の祖父、祖母も早くにご逝去。彼女は血縁という世界では、天涯孤独という悲劇の主人公になっていた。

私の涙腺は切れていた。5分間ぐらい言葉は交わされず、3人の嗚咽だけの時間。
私は、喪主のような心情になりつつあった。
 考えて欲しい。悲嘆の救いに重要な血縁者が、1人も存在しないという淋しい現実を。

「葬儀屋さんも泣いてくれているでしょ。**ちゃん、こんないい供養はないのよ」 
お母様に合掌しながら、おばさんにそう言われた時、私は、完全に喪主となって完成していた。
 
そんな私の顔つきが変化したことを察したのだろう。おばさんが、「さあ、お葬式よ」と行動的な発言をされ、明け方までに葬儀の形式の基本を決めて欲しいと提案され、まずは、娘さんのお考えを伺うことにした。

 「私は、葬儀のことは何も解りません。ですからおばさんに・・・ しかし、お金が必要なことは解ります。でも、私の貯金は、37万円しかありません」

 その当時、大阪の一般ご家庭の葬儀では、通夜、葬儀の飲食接待費、諸費用、葬儀社、御布施関係など、総合的な葬儀費用は最低でも100万円前後を要し、ご親戚への飲食接待費が丸々割愛されるとしても、とても賄える金額ではなかった。

 <これは、難しい問題だ>と思っている時、おばさんが意外なことを話し始めた。

 「**ちゃん。お金の心配はいらないのよ。私、お母さんから貯金通帳を預かっているの。これは、あなたが花嫁になる日のためのお金。お母さんのあなたへの愛の結晶ね。あなたがお嫁さんになる時が来たら、私がお母さん代わりをする約束までしていたの」

 おばさんのポケットから郵便局の通帳と印鑑が取り出され、彼女に手渡された。
通帳の名義が自分になっていることを見た彼女は、お母さんの方に座り直して絶句した。

 こんな場合、誰もが通帳の金額確認をされるようだが、彼女は表紙の名義確認だけしかしなかった。 

 金額は、お母さんの大きな愛情を知らせようとする、おばさんの善意の言葉で知るところとなった。211万円、大金であった。
 
 「**ちゃん。だからお葬式は、心配なく立派に出すことが出来るのよ。でもね、誰にも知らせずに、この葬儀屋さんに来てもらったのは、おばさんとしての考えがあるの。お母さんの気持ちが痛いほど解るの」

 
真夜中に行なわれる3人だけの秘密会議。いよいよ葬儀の「かたち」に進みますが、明日に続きます。

2002/06/09   たった、ひとり   前 編    NO 100

 今日は、発信の日より100日目を向かえ、「NO」が3桁になりました。

 振り返ってみると、書くべきではなかったと反省するテーマもありましたが、後悔していることはありません。

 これがいつまで続くことになるのかは分かりませんが、出来るだけ、生きている限り挑戦したいと思っており、それは、私の生きた「証」となって、スタッフや後継者へのプレゼントとなればとの願いと思いも託しています。

 これまで体験した葬儀の中で、印象に残っていることは少なくありませんが、今日は、私に「ご遺族と共に」という理念が誕生するきっかけになった葬儀を紹介申し上げます。

 真夜中の事務所に、近所のおばさんがやって来られ、「とにかく、私と一緒に来て」とだけおっしゃる。葬儀の依頼なら持参しなければならない物もあるし、そのことを確認すると、「あなたを見込んで頼むことなの。お葬式だけど、今は、とにかく一緒に来てよ」。それだけ。
 
 おばさんは、自転車。私も自転車で、とにかくお供をすることにした。

 相手様のお家は、おばさんのご自宅のすぐ近所で、寝静まる深夜の時間、一軒だけ電気のついたお家がそうであった。
 
 「ここよ」、それは、密やかな声だった。自転車を立て掛ける際の行動も、日頃のおばさんらしからぬイメージを感じる。

 静かに入り口の扉が開けられ、招かれて中に入った。平屋のお家で、玄関の土間、4畳半、6畳のお部屋が、このお家の空間であった。

 「連れて来たからね。任せさない、もう安心よ」。おばさんが声を掛けられると、未成年らしい女性が涙を流しながら登場され、4畳半の畳の上に正座、所謂「三つ指」を着いて、無言で深々と頭を下げられる。名刺を出せるような雰囲気は全くない。

 「母の葬儀をお願いします。何も分かりませんので、母が最も信頼していたおばさんにご相談いたしました。よろしくお願い申し上げます」

「心配いらないの、堅苦しい挨拶は抜きよ。まだ、私以外の人は誰も知らないのだから、安心しなさい。私が信頼する葬儀屋さんが、この人。なんでも相談したらいいのよ」

 おばさんに促されて上がることになったが、奥の部屋には布団が敷かれ、上品な白髪女性の安らかなお顔が見え、その横に眼鏡が置かれていた。

 私が最初に言葉を出したのは、「ご親戚様は?」だった。

 「私は、母一人、子一人の二人家族で、母を失って、この世に身内と呼べる人は誰もありません」

 そこで、おばさんの解説が入った。それによると、お父様は彼女が生まれて間もなく亡くなられ、お母様が和裁の技術を生かされ、呉服屋さんの下請けとして生計を立てられ、彼女は、高校を卒業後に就職されてから、まだ数ヶ月という状況が分かった。

 数年前から病気がちだったそうだが、仕事を毎日欠かさず、「娘を成人させるまでは」との気力も、ついに病魔に尽きてしまったという、テレビドラマの悲劇のような中に私が入っていた。
 
       明日に続きます

2002/06/08   今日の葬儀から   NO 99

私が今日マイクを担当したのは、午前と午後、お2人の葬儀だった。
 
午前中は、一昨日、昨日と書いている無宗教のお方で、昭和23年生まれの方。午後は昭和22年生まれの私と同じ年の方で、自分の息子と同じ年代ぐらいの息子さんが健気に喪主をつとめられ、ご出棺前に立派な挨拶をされたのが印象的だった。

 前にも書いたが、自身の年齢が増えるに連れ、同年代、そして自身より若い方の葬儀を担当することも増えるが、最近は若い人が目立って多くなり、少子高齢社会の中での悲しくて淋しい裏面を感じるこの頃である。

 さて、無宗教葬儀は、描いたシナリオに基いて進められて行ったが、シナリオになかったことが「ハプニング」として発生してしまった。

それは、音響器材の一部のトラブルで、式の最中にCDの活用が制限され、テープを中心にした演出を余儀なくされ、オリジナルCD「慈曲」の内の2曲を、少し音質が低下するテープとなってしまったことが口惜しく、機械の恐ろしさを改めて認識しつつも、物言わぬ器材に恨みの視線を浴びせることになった。

ハプニングへの対応で重要なことは、慌てないこと。余裕のあるなしで対策の方向に差異が生まれ、ダブルパンチにつながることも少なくない。

私がスタッフ達に、いつも言い聞かせている次の言葉がある。

「葬儀の式場では、絶対に走るな。慌てるな。お客様からの頼まれたことへの迅速対応を除いて、走る時は二つだけ。火の発生と人が倒れた時のみ」

一方で、前夜式で交わされた「ひとこま」を、女性スタッフから入手することになった。

当日、著名な芸能人が弔問されておられ、お帰りの直前に私のことを訊ねられ、「やっぱり」とおっしゃったそうだ。

私は、その方とテレビ番組で何度か「えにし」があった。先方も思い出されたのだろう。

「あの葬儀屋の社長に叱られたことがある」と言われ、その際のエピソードをお話されたのだが、それが本番か打ち合わせ時であったか記憶にはないが、確か、我々のやりとりは、次のようなことだった筈。

「私は芸能人ですが、信念があるのです。私が死んでも葬儀をして欲しくないのです」
「その考え方は、ある意味で間違っています。著名人になったのは、社会の中での出来事。人の支えでそうなられたのです。ファンの存在もあります。それが、社会から一方的にさようならをされるのは、勝手な考えです」

 これには様々なご意見があるだろう。送られたくない権利もあるかも知れないし、送りたいという権利とは比較にならないだろうが、人と接した人生である以上、送っていただく義務もあるというのが私の考え方であった。

 この「権利」と「義務」については、実際に体験したことが何度もあり、何れ、触れてみたいと思っています。

2002/06/08    前 夜 式    NO 98


 昨日にしたためた「前夜式」、午後7時から、時間通り40分間で「式」が終わった。

 あまり好きでない「感激した」というお言葉を多く頂戴したが、私の好きな「感動した」というご意見も少なくなかったので、疲れの中にほっとした思いである。

 夕方、事務所を出る時、現場責任者から電話があった。ご遺族にメッセージが届けられ、是非「代読を」というご要望だったが、相手様が女性か男性かとの確認をしたところ男性ということから、女性のアシスタント司会者を伴わなかった。

 式場に着いて確認すると、メッセージは、名の通った料理屋さんからで、立派な和紙に墨書き。それは見事な達筆で、心が伝わるしっかりとされた文章で、代読の時の気合いが入ることになった。

 女性スタッフ達が創作してくれた式次第、また、メモリアルコーナーのお写真が好評で、担当スタッフ達が喜んでいるが、私は、まだまだとの厳しい目で見ている。

 前夜式が終わった後、私の手元に1本のカセットテープが届けられた。その中には故人が自ら弾かれた三味線の音色が録音されており、明日の告別式で皆さんに拝聴いただくことになった。

 1人の参列者が私のところへ来られ、驚くお言葉を聞かされることもあった。それは、私を牧師や神父と勘違いされたようで、「何処の教会ですか?」「プロテスタントですか、カソリックですか?」とおっしゃられたからである。

 「単なる葬儀社の立場にあります」と答えたところ、「神学校で学ばれたのですか?」と念を押されてきた。

 私は、決して「神父さん」や「牧師さん」の真似をしたのではない。創作した言葉も限った宗教につながるものでもなく、すべての宗教の原点である「生命」「愛」「癒し」「人生観」「歴史」などを総合したもので、そんなことを説明申し上げると、ご納得をされることになった。

 どうやら、私の口調がその原因になったようだ。客観的な立場からの参列者へのメッセージや、時に織り交ぜた儀式的な言葉遣い、また、朗読のひとときなどから感じられたものと思っている。

 中継と録画を依頼したプロのビデオスタッフ達。彼らは多くの葬儀会社の仕事を体験されているが、「参りました」「感動しました」「こんな音楽の存在を初めて知りました。選曲が最高でした」と世辞を送ってくれたが、2カメのスタッフが撮影中に涙を流していた光景を数人の方に目撃されたそうだ。

 自画自賛の物語の結びに申し上げるが、私は「お涙頂戴型」の司会は大嫌いで、少なくとも一流と呼ばれる司会者がするものではないと考えている。

 故人との「思い出」が「形見」となってプレゼント出来た時、そして、死が自身にも訪れる意識をお感じいただけた時、そこで流れる「澄んだ」自然の涙は許されるだろうと思っている。

 明日は、いよいよ告別式。故人を偲びながら、小さな缶ビールで献杯申し上げ、おやすみなさいと参ります

2002/06/06    故人の遺志    NO 97

 真夜中に電話があった。相手様は私の古くからのお知り合い。30数年間もの永い歳月、お店を共にやってこられた大切なご友人が亡くなられたそうである。
 
 享年55歳。私もよく存じ上げている方で、素晴らしいお人柄に、多くのご友人達に恵まれたことが最高の財産という方だった。

 葬儀の形式は、ご本人の強いご要望で「無宗教形式」。今、明日の前夜式と明後日の告別式のシナリオを完成したところである。

 お寺様での大規模な「社葬」や、ホテルに於ける「偲ぶ会」や「お別れ会」と異なり、ご遺体のあられる無宗教形式のご葬送は大変で、単なる進行係としての司会ではなく、「司式」としての立場で、厳粛なご終焉の儀式を構築している。

 シナリオ制作時間は、大規模な社葬でも1時間で完成するが、今回は完全な特別オリジナルバージョンとなり、久し振りに5時間を費やすことになった。

 今、女性スタッフ達が、メモリアルコーナーにお供え申し上げるお写真や、追憶のビデオ編集を進めているが、数件のご葬儀を同時に担当している中での創作で、最も恐ろしいことは心の余裕がなくなるということ。それらは、確実に作品に表現されてしまうものである。

 私が「司式」という言葉を用いると、宗教者の方々からご叱責を頂戴することは確実だが、無宗教形式である以上、単なる「会」や「集い」で終わりたくないということが本音で、それだけ、人の「命」や「人生」というものに重みがあることを理解しているつもりだ。

 ある時、ある宗教者の方が興味を持たれ、私が担当する無宗教形式による葬儀をご体験くださったが、衝撃を受けられ、「確かに司式だ」とご認識いただいたことも事実である。

 日本でこの形式が提供可能な司会者はいないだろう。もちろん、ホテルのブライダル司会者では絶対に不可能な世界である。これらは、プロである日本トータライフ協会のメンバー達が体験の上に認識したことである。

 「命」「愛」「癒し」をコンセプトした「慈曲葬」。それによる前夜式、告別式をご初めてご体感される参列者が大半だろう。「会場空間」がどのように「儀式空間」として神変出来るか、ここが最も重要なところである。

 オリジナルCD「慈曲」のフル活用と言葉の演出。司会はさわやかでシンプルに、司式の部分は重厚イメージで、その使い分けも大切な部分であり、スタッフのフォローこそがすべてという認識がなければ、絶対にご満足を頂戴出来ないと考えている。

 ご遺族、ご参列者とご一緒に、故人をお偲び申し上げながら進行につとめる。その基本的な姿勢も忘れてはならない世界。思い出を形見として差し上げたいとの思いでマイクを握る。

思い出を有り難う・・・・・・・

2002/06/05   テレビ出演の裏側で     NO 96

東京のテレビ局からの依頼で、1時間の生放送に何回か出演するということがあった。その番組のメイン司会者が著名なキャスターで、葬儀の話題を取り上げる時、必ず私を招いてくれた。

大阪からの交通費、宿泊費、ハイヤー送迎まで含めると、テレビ局側が負担される金額も大きいし、いつも「なぜ、東京の葬儀屋さんを呼ばないのだろうか?」との疑問を抱いていた。

 誤解を招いてはいけないので、頂戴した出演料にも触れるが、私は芸能人ではなく一般(彼らの世界では有り難くも<文化人>と呼ばれていた)扱いで、東京、大阪間の新幹線のグリーン車往復料金程度であった。

 出演料は、必ず10パーセントの源泉税が差し引かれ、年末を迎える頃になると、年度の出演料源泉税の明細が送られてきていた。

 さて、上記の疑問に対する答だが、食事をしながら打ち合わせを行なっている時、ふと、担当プロデューサーから飛び出した雑談で知るところとなった。

 それによると、ある番組で、視聴者からの電話による質問を承るコーナーがあり、「これは面白い」という内容の質問を司会者に渡し、ゲストに迎えた葬儀屋さんに応えていただく企画があったそうだ。しかし、ある質問に対して答える事が出来ず、その瞬間からクレームの電話が鳴りっ放しになってしまい、司会者を含む番組スタッフ達がパニックに陥ってしまったそうである。

 「あなたは安心です。おそらく、難しくて答えられない質問がきても、さらりと交わすことが出来る筈です。その余裕が私たちにとって有り難い存在なのです」

 変に持ち上げた「煽て」の言葉でないかと思った時、それを察したキャスターが慌ててフォローしてくれたが、生放送の面白くて恐ろしい舞台裏を学ぶことにはなった。

 多くの芸能人の皆さんとご一緒したが、自分だけの「受け」を売り物にされる「おふざけタイプ」の方が大変で、「今日、全国でどれだけの悲しみの葬儀が行われ、また、今晩、どれだけのお通夜が行なわれるかご存じですか?」と発言してしまい、番組が、一瞬、お通夜のように固まってしまった苦い経験も懐かしい。

 一方で、あるクイズの特別番組のゲストとして招かれた時、「それだけは許して」と懇願したが、どうにもならず、会場に設けられた階段の上のゲートから、著名な俳優さん、歌手さんに続いて「3人目のゲストです」と紹介され、階段を下りて行った登場シーンだけは羞恥と不覚の極みで、思い出したくない歴史として焼きついている。

 テレビ番組の生放送の司会者能力は、打ち合わせの時にすぐに分かるもので、視聴者のことを考慮して「それは止められた方が」というアドバイスに対して、「お話ししてください。ご協力ください。お願いしますよ」というタイプは二流。

一流と呼ばれる方は、「ごもっともです。なるほど。おっしゃる通りです」と言いながら、本番になったら持ち出してくる方。

そんなところから、これらに対する「交わし方」をテクニックとして備えておかなければ、ゲスト出演は、致命的な結末を迎えることになるだろう。

2002/06/04   熊本から・・コラム「もっこす」の誕生   NO 95

 葬祭業は、これまで、忌み嫌われてきた業種としてのイメージがあり、若い人達の就職先の対象となることは皆無で、ましてや女性スタッフの活用など「夢」の世界でもあった。

 それが、今はどうだろう。大学からの就職に関する資料請求やメールもやって来る時代。これらは、社会不況に伴う就職難や、少子高齢社会到来による成長産業との認識と思われがちだが、決してそうではないと考えている。

 人生の終焉の大切な儀式に携わる、崇高な仕事。社会で最もホスピタリティが追究されるプロの仕事。葬祭心理学の研鑽に生まれる「悲嘆」の理解とケアなど、究極のサービス業の認識が必要で、ホテルマンや航空機のパーサー以上の資質が求められる職業として、従事される方々が「誇り」を抱いて欲しいと願っている。

 数年前に、熊本県の葬儀社さんのお嬢さんを2年間、研修社員としてお預かりしたことがある。

彼女は、大学卒業と同時に、親の職業である「葬儀」の道に入った訳だが、何より感心したことは、葬祭業が立派な仕事であるとの誇りを持っていたこと。そんな彼女は、今、地元の皆さんのアイドル的存在として、「愛」と「癒し」のサービスを担当している。

今日、彼女の会社から嬉しい報告があった。ホームページをリニューアル発信されたそうで、新しいアドレスを取得され、これまでとは全く異なる充実した内容になっており、私が書いた推薦文が恥ずかしい限りとなってしまっていた。

 1カ月ほど前に、この「独り言」で、ホテルから救急車で病院に運ばれたという「鼻血事件」を書いたが、その時に迷惑を掛けてしまったのが彼女の会社。落合葬儀社である。

 今日発信の新しいHPに、また、若い後継者の立派な「志」が誕生していた。コラム「もっこす」の登場である。担当されるのは「克哉君」という20代半ばの若い人。
 因みに、今日の協会「コラム 有為転変」は、彼の担当文章となっている。

そんな彼に最も影響を与えたのは、高知県の「おかざき葬儀社」さんで、今、日本トータライフ協会では、コラムが大流行。東京の「井口葬儀店・株式会社エチュード」でも始まっており、年内には、数社から誕生すると予想している。 
 
 非日常的な葬儀という人生の通過儀礼。それだけに無知なお客様が大半。そんな方々を対象に、単なるビジネスとしての「囲い込み戦略」が潮流となっている葬祭業界。

今、私達は、日本トータライフ協会の活動を通じて、ビジネスとは全く異なる「道」を歩み始めているが、次代を担う若い人達が葬祭業を立派な仕事として認識されること。そして、社会に賛同される葬祭文化の向上になればとの思いが秘められている。


 熊本県 落合葬儀社  高知県 おかざき葬儀社

 上記のHPには、当HP内「サイトマップ」で、日本トータライフ協会メンバーコメントからリンクされています。

 また、東京都 井口葬儀店・株式会社エチュードには、「サイトマップ」で「ホテル葬への取り組み」からリンクされます。

 日本トータライフ協会「コラム 有為転変」は、「サイトマップ」で日本トータライフ協会にリンクください。

                 是非、ご訪問くださいますよう。

2002/06/03   ある講演でのリサーチ   NO 94

 一昨日、ある大きな団体からの講演依頼があり、来月、担当することになった。
 
弊社では、10年ほど前から、全国のすべての新聞、雑誌に取り上げられた「葬儀」「死」などに関する記事をファイル入力するシステムを構築していますが、これらの量は年々に増加し、内容も多様化、個性化の時代の到来を顕著に物語っています。
 
講演は、本来、一方通行でお話し申し上げることですが、私は、社会ニーズ把握の機会との思いから、終了後の質疑応答を積極的に行なっています。

ある女性団体の講演で質疑応答に入った時、「白木の祭壇が大嫌い」というご発言から確認すると、出席者の7割近い方が「私も嫌い」という挙手をされ、衝撃的な体験として自身の意識改革につながった訳ですが、つい最近の講演で、また、衝撃的なリサーチとなったことがあるので報告申し上げます。

質疑応答の始めに上述の「白木祭壇、大嫌い」の体験を披露したところ、ある受講者が次のような面白いことを提案されました。

「興味本位で失礼なのですが、この機会に是非、知りたいことがあるのです。それは、現在に行なわれている葬儀に対して、皆さんが<嫌」><止めて欲しい>と思っておられること。それがどんなことか、ご意見を伺っていただけませんでしょうか」

 これは、私にも興味がある。すぐに実行に移すのは当然。 

その結果、まあ、次から次に挙手があり、好き勝手に遠慮のないご意見が飛び出してきた。

「入り口の家紋入りの提灯が嫌い。いかにもお葬式らしいイメージが嫌い。改革するべき」
「テレビドラマで見た<金ピカ>の霊柩車にショック。あれだけは乗りたくない」
「お涙頂戴の司会を止めて。もっとさわやかに出来ないの?」
「お葬式と蓮華。このイメージがどうして変わらないの?」
「会葬のお礼状なんて必要かしら?」
「お供養という返礼品なんて必要かしら? するなら品物をもっと考慮するべき」
「義理で来られる参列者なんていらない。無駄の象徴だと思う」
「お寺様は1人という訳にはいかないのでしょうか?」
「親戚の葬儀で思いました。信じられないような、その地の風習を改革するべき」
「いかにも葬儀らしい音楽には強い抵抗感を抱く。葬儀屋さんの感性を疑う」
「自治会に主導権があり、遺族の意思が踏みにじられたことが許せない」
「病院で葬儀社を紹介されたことが衝撃。病院に怒りを抱いた」

 上記は、ほんの一部である。15分ぐらいかなと予測して始めた質疑応答だが、1時間を経過しても留まる雰囲気はなく、ますますエスカレートの兆候。やっと主催者側の介入でストップすることになったが、誰一人として席を立つ人がなく、主催者側が集約されたお声によると、「質疑応答の時間が楽しくて勉強になった」というのが圧倒的多数で、私の講演本体が何処かへ飛んでしまったような思いも抱きました。

 出席者の皆さんから拝聴した葬儀への抵抗感、それは、我々葬儀社と宗教者の皆様には衝撃的なことが多く、その部分の表記は敢えて割愛させていただいたが、現在から近い将来の葬送形式の変化に対して、絶対に止めることの出来ないパワーがあったことだけは真摯に受け止めています。

 いずれ、この「独り言」で紹介申し上げることになるでしょうが、「そんな時代が到来していたのか」ということにはなって欲しくないと思っています。

2002/06/02   友人からの依頼    後 編   NO 93

 日本トータライフ協会「コラム 有為転変」は、昨日、今日と連載で、結婚式披露宴で同席となった、病院の院長さんと葬儀社社長の「命と死について」の話。是非、ご訪問くださいませ。

 さて、昨日の続きですが、私がシナリオのヒントにしたのは葬儀に於けるオリジナルサービス「命の伝達式」で、その内容については省かせていただくが、基本として進めることは次のようなことだった。

*「只今より」というイメージのオープニングを行なわない。
*アクションは客電のダウンと音楽のスタート。CD「慈曲」から1曲を選曲。
*司会者は、間違いのないように、したためた原稿を読み上げる。
 
「**会長の人生80年。振り返ればご両親のご存在がなければご誕生されることはなく、そのお父様は、会長が1歳と数ヶ月でご逝去。そんなご不幸を見事に乗り越えられ、会長ご兄弟を見事に育まれたお母様も、十数年前にご逝去されました。お父様の80回忌にも併せ、まずは、お父様に感謝の合掌と黙祷を捧げます。・・・黙祷」

「次に、会長のご誕生日という本日ですが、誕生日という日は、お母様のお腹を痛めた日ということにもなります。ご一緒に、お母様への感謝の合掌とご冥福を祈念いたしましょう。・・・黙祷」

*ピンスポが会長に向けられる。そしてお孫様全員が壇上へ。

「80歳のご誕生日を迎えられた**会長。お陰様で、今やこのように9人のお孫様がおられ、お席にはお母様に抱かれた曾孫様も2人いらっしゃいます。そのご成長振りを何よりのお楽しみとされておられる会長に、お孫様達からプレゼントがございます」

 その後でご来賓のお祝いの言葉。きっと、ご用意されたご祝辞の前に、ご両親のこと、そして賑やかなお孫様達のことにも触れられる筈だ。

 ご両親への「献杯」の発声は司会者が行い、続いて行なう祝賀会の「乾杯」は何方かのお願いする。これでシナリオは完成で、偲ぶひとときは「さわやかに」「流れるように」「極めて自然に」というアドバイスを加えた。

 私は。その会長さんの胸中には、ご自身の「生前葬」的な思いが託されているように思えてならなかった。面影すらご存じでないお父様、言葉で表現できないようなご苦労を強いられたお母様の存在を考えると、上記のシナリオでは気の毒だと感じてはいたが、誰もが納得をされる「式」「会」にするには「司会」のパワーが不可欠で、プロの域となってしまうところから、「シンプル」な形式を提案するに留めた。

 母の日や誕生日、それはお母さんのお腹を痛めた日。親不孝をしてきた私自身が使える言葉ではないが、命の先祖の存在は重要である。

 会長さん、いつまでもお元気で。そして、パーティーのご盛会と司会者の成功を衷心より祈念申し上げます。
                               ・・・・・合掌

2002/06/01   友人からの依頼   前 編    NO 92


昨日の日本トータライフ協会「コラム 有為転変」第130号は、先日の中華航空機事故に関する出来事を、朝礼で訓示された協会メンバー社長のことが記載されてあり、メンバー達だけではなく、多くの方々から感動のお言葉を頂戴することになりました。

必見です。是非、ご覧くださいますよう。

さて、昨夕、歩いていた時、携帯電話が鳴った。ふと番号を見ると学生時代の友人。

私は、前にも書いたが「携帯電話」は「掛けること」「掛かってくること」のみの使用で、私の番号を知っている人達も極めて少数である。

 携帯でメールをやりとりする光景が何処でも見られるが、私は一切出来ないし、本当は羨ましく思っていることも正直に白状します。

 <食事かお酒の誘いかな>と思って電話に出ると、かなり慌てている口調で「今から会いたい。30分の時間をくれ」と懇願される。どうやら、彼の横には誰かがいるような雰囲気。「1時間後に私の自宅へ」ということで、そのまま自宅へ直行することにした。

 やがて、思った通り、彼は1人の人物を伴ってやって来た。かなり年配の方だが「恐縮です」の言葉の連発が面白い方。

 ひょっとして葬儀の事前相談かな?と思っていた予想は外れた。

用件は、その方が担当されることになった「司会」についてであり、ちょっと素人さんには発想出来ない催しで、あちこちに相談をされたそうだが答えが見つからず、取引先の社長である彼に相談したことから、私との面談という「えにし」が生まれたのである。

事情を伺うと、その「会」は次のような趣旨で開催されるそうだ。 

* メインは取引先の会長さんの「80歳の誕生祝賀会」。
*その会長さんのお父様は、会長さんが誕生されて2歳になる前にご急逝されている。
*お母様は、10数年前にご逝去されている。

 会長さんのご希望は、誕生祝賀会に併せてご両親のことを少しでも「回忌的」に組み込み、湿っぽくなくて明るいパーティーにしてくれとおっしゃっているそうだ。

 司会を担当されることになったその人物は、「乾杯はどうなるのでしょうか?」「ご両親のことはどうしたらよいのでしょうか?」と質問され、心配そうな面持ち。

 横に座っている友人は、この成り行きを楽しんでいるようで、来る途中で買ってきたという彼好みの缶ビールをうまそうに飲んでいる。

 本番の日が近い。この方の心労が理解出来る。必ず解決してくれるだろうとの友人の期待を裏切る訳にはいかないが、「友人の葬儀屋を紹介する」といった時には「まさか」と思って驚かれたそうだ。
 
祝辞が1人あるそうだが、それも前もって打ち合わせが出来ないという特別な地位にあるご来賓。

さて、皆様だったら、この条件でどのようなシナリオを作成されるでしょうか。

 この問題の解決。それは、互いの質疑を含めて10分で終わった。その方のお顔に安堵感が溢れ、共に缶ビールを飲むことになった。

その結論となった提案は、明日に続きます


  [最新のコラム] このページのTOP▲